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恩師との誓い[炉辺閑話]

No.4993 (2020年01月04日発行) P.36

原 晃 (筑波大学副学長・理事・附属病院病院長)

登録日: 2020-01-03

最終更新日: 2019-12-20

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現在病院、特に特定機能病院では(医師の)働き方改革への対応で揺れている。特に大学病院のように「教育」を存続意義の柱のひとつにしている病院で、労働と研修を果たして分けられるのだろうか。あるいは、分ける意味とは一体何なであろうか。もちろん、過重労働で心身ともに病むことはあってはならないが、大学病院勤務者にとって研修や学習を切り分けることは可能なのであろうか。これから、述べることは、大学附属病院長としてというより、定年を既に迎えた一医療者の愚痴と思って頂きたい。

私は、昭和54年に8年を過ごした大学を卒業し、耳鼻咽喉科学教室に入局したが、学生時代遊ばせて頂いた分、入局後の10年はこの時期以外のすべての時期よりも知識・技能とも吸収力、集中力が私の中では頂点であったように思う。そんな時期、入局1年目の飲み会で、当時講師だった故草刈潤先生に、「原君、21世紀までには感音難聴を一緒に治してみないか」と言われ、それが草刈先生にとっても私にとっても生涯の目標になった。入局直後はまだ附属病院の当直は当てられていなかったが、先輩に頼み込んで一緒に当直させて頂いて救急対応の技術を磨いた。また、入局3年目からは5時以降、実験の日々に明け暮れた。当時、耳鼻咽喉科では電顕と電気生理学的手法しかなかったが、あえて生化学(それも特に学生時代に生化学が好きだったわけではないが)を選んだ。当時は、日本国内に内耳の生化学を学べるところがなく、これも草刈先生のご尽力で米国留学もさせて頂いた。結果、21世紀も20年経とうとしている現在に至るまで、未だに先生との誓いである感音難聴の治療法はできないでいる。

しかしながら、アカデミアで過ごした40年は、医療者としても医学者としても充実したものであったと自負している。1988年に教授となった草刈先生の後を追って、筑波大学講師として赴任した後も、東北大学時代そのままに後進の指導も行ってきたが、草刈教室1回生の諸君に私と同様のことを求めると、4人の入局者のうち2人まではついてきてくれたが、他の2人のうち1人には「私は先生と違ってスーパーマンではありませんし、なろうとも思っていません」と言われたことを未だに忘れられない。確かに、人の生き方はそれぞれであり、それを押し付けるのはまさにパワハラであろう。

しかし、私自身は1日20時間労働でも(臨床、研究そしてその後のTrinkenまで入れると)まったく苦痛とは思わなかったし、過重労働とも思わなかった。その20時間が実に楽しかったからであり、充実していたからである。確かに強制は良くないし、強制されたほうにとっては苦痛以外のなにものでもないであろう。また、こうした意見を病院管理者である私の立場上いうことは、適切とも思わない。

それでも、私は私の個人として思う。私の40年に悔いはないし、アカデミアの生活を一瞬たりとも対価を得るための「労働」ととらえたことはない。つまり、労働ととるか研修ととるか、あるいは生きがいととるかは、本人の価値観に基づいた本人の判断に委ねられるべきものなのではなかろうか。これを法的に区分するのはきわめて困難であり、虚しい。米国ではまだ腕の良くない医学生、レジデントを自らが対象患者となり育ててあげようという文化がある。あれほど法律(とそれに基づいた国家、国旗)しか依るすべのない米国で、(医師免許を持たない)医学生に医療を行わせるための依るべき法律はないのである。医療は決して労働ではなく、国民が育て、その結果として高度な医療も享受するという理念があまねくゆきわたっているのであろう。その米国でさえもレジデントへの働き方改革で、医療の現場を支えているのは週60時間以上病院に勤務(研修?)している医学生であることは、大変皮肉なことであり、日本も他山の石とすべきではなかろうか。

若い医師の諸君には自らの「夢」を持ち、その「夢」の実現のために楽しんで邁進してもらいたい。近年のスポーツ界では「楽しむこと」を目標に掲げる選手が多いように思う。私も大賛成である。どんな困難も、苦労も打ち立てるべき目標や夢があれば楽しいのである。 Let’s play ! Let’s enjoy !

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