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忘れえぬ恩師[炉辺閑話]

No.4941 (2019年01月05日発行) P.82

伊東紘一 (済生会陸前高田診療所所長)

登録日: 2019-01-05

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学生時代そして医師になってからも、大勢の先達に巡り合ったものであった。その多くは鬼籍に入っているが、長い長い時間が経過してもそれらの人たちを忘れることはない。恩師久代登喜男先生について徒然に記してみたいと思う。

久代登喜男先生は日本大学医学部教授で循環器病学が専門であった。そのガリ版刷りの講義録は今も私の手元に保管してある。その写真は今も私の診察室に掲げてある。先生は49歳のときに慢性骨髄性白血病で亡くなられたが、実に魅力ある人生を我らに示して去ったように思う。

先生は浅草に生まれ育ち、三社祭の3日間は神輿と共に歩き、親鸞が好きで、大学附属病院で毎月親鸞や仏教のことを勉強する会を開催していた。今で言う終末期医療について想いを馳せていたのではないか。我々若い医師達に教え諭すつもりであったろうと想う。

また、落語が好きで、学生時代は大学の講堂で落語家を呼んで、教壇の上に座布団をおいて「落研」を開いていたという。当時から六代目三遊亭圓生と仲良しで、しばしば若い教室員を圓生の落語会に連れて行ってくれたものであった。さらに、野球が好きで、読売巨人軍の創設以来のファンで、後楽園に専用の席が設けられていた。いつでも「木戸御免」で巨人軍の試合を見ることができるという待遇が与えられていたのである。しかし、先生は「ファン」は貢ぐものであって、ただで見るのはよくないと言って、大勢の教室員を連れて、全員の料金を支払っていたものであった。

先生には「ファン」がいて、神楽坂の料亭に招かれたときに、若い教室員を連れて行かれることもしばしばあった。我々若い連中はおいしいご馳走に喜んでいたが、先生はやおら三味線を芸者さんから受け取り、三味線を弾くのであった。我々は、あまりの「粋な姿」に驚いたものであった。

教室では毎週勉強会(抄読会)があるが、「赤ひげ」とか「ドクトルジバゴ」等という興味深い映画が上映されると、この勉強会を映画観賞会に切り替えて、教室員全員(当直を残して)を連れて映画館に行くのである。もちろん、全員の切符は自分が支払うのである。

先生は大相撲・花籠部屋にも関係があり、初代若乃花の主治医であった。当時の花籠部屋の相撲取りは貧乏で、部屋の運営もファン(タニマチ)に依存していたのである。大学附属病院に入院して治療するときにも、無料で診療していたのである。まるで江戸徳川時代の「赤ひげ診療譚」を見るような光景であった。

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