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追悼 高久史麿先生(矢﨑義雄、横倉義武、門田守人、浦部晶夫、永井良三、千葉 滋)

No.5112 (2022年04月16日発行) P.18

登録日: 2022-04-14

最終更新日: 2022-04-13

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髙久史麿(たかく ふみまろ):1931年韓国・釜山生まれ。54年東大医学部卒業。72年自治医大内科教授、82年東大医学部第3内科教授、88~90年東大医学部長、90年国立病院医療センター院長(東大第3内科教授兼任)、93年国立国際医療センター総長、96~2012年自治医大学長、04~17年日本医学会会長。1971年ベルツ賞,1994年紫綬褒章,2012年瑞宝大綬章。


日本医学会長などとしてわが国の医学・医療の発展に多大な貢献をしてきた髙久史麿氏(公益社団法人地域医療振興協会会長、自治医大名誉学長、国立国際医療研究センター名誉総長、東大名誉教授)が3月24日、逝去した。享年91歳。親交の深かった方々に故人との思い出を寄せていただいた。

髙久史麿先生のご指導を受けて

学校法人東京医科大学理事長/元東京大学医学部第三内科教授 矢﨑義雄

この度、髙久史麿先生の突然のご訃報を受け、つい最近まで視力の不調を訴えられた以外には大変お元気でおられたので、まったく今でも信じられないところです。

先生に初めてお目にかかったのは、私が東京大学医学部第三内科に入局した時ですから、60年近くご指導いただいたことになります。先生とは臨床の専門分野が血液・腫瘍と循環器とで異なりましたが、当時医学研究では、従来の病理、生理学中心から生化学、代謝、さらには分子生物学へと大きく転換する時代を迎え、その最先端を走っておられた先生にあこがれ、循環器領域での生化学的な研究をめざしたことが、昨日のように思い出されました。

先生が、自治医科大学の創設にご尽力された後、第三内科教授として東大に戻られたとき,私も4年間にわたった留学から帰国して循環器グループのチーフになったところでした。早速研究内容と今後の方針を説明申し上げましたところ、大変関心を持っていただき、具体的で適切なご指導をいただきました。特に、細胞工学を用いた当時最先端の研究手法であったモノクローナル抗体を活用することの示唆をいただき、これが私共の研究が国際的にも高く評価されるまでに至った大きな契機となりました。さらに、先生は、臨床教室ではわが国初の遺伝子研究室を開設され、発がんに関わる責任遺伝子の同定や糖尿病患者でのインスリン受容体遺伝子変異の発見など、世界的な業績を次々と挙げられました。私共も心筋肥大の分子機序などを解明することができ、さらには、遺伝子工学を用いた遺伝子欠損マウスの作製などの革新的な研究手法の開発の道も開かれました。

このような研究面でのご業績とともに人材育成にも努められ、教室から数多くの優秀な教育研究指導者が輩出され、全国で活躍されました。また、ご趣味のテニスを介して若い人々と交流され、幅広い人脈も築かれておられました。

さらに先生は、医学界における指導者として日本医学会会長を長年にわたって務められ、わが国の医学・医療の発展にご尽力されたことは皆さんご案内の通りです。省庁関係の医療に関する審議会のほとんどの座長を務められるとともに、立ち遅れたわが国における医学教育の改革をはじめ、骨髄バンクの創設、医療安全の確保をめざした体制の整備などを主導されました。

髙久史麿先生のご逝去に当たって、ここに改めて先生のご功績を思い、永きにわたってご指導いただきましたことを深く感謝申し上げ、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

感謝

前日本医師会会長 横倉義武

髙久史麿先生のご逝去の連絡を受け、生前のご恩への感謝の念と共に、心からご冥福をお祈りします。

私が髙久先生とお話したのは日本医師会の役員になった2010年でした。日本医学会の会長・副会長の先生方の会議に同席を求められ、ご指導を賜ることになりました。先生は朝鮮から小倉に引き揚げられ、熊本の第五高等学校から東大に進まれましたので、福岡にご縁があり、懐かしがっていただきました。先生は日本の医療の発展のためには日本医師会が健全に発展しなければいけないこと、日本医学会は医学・医療の面からしっかり支えていくことを会議のたびにお話しいただき、励ましていただきました。

日本医師会の政策は50近い会議体で全国の意見を集約し結実をさせていきますが、その中で生命倫理懇談会、学術推進会議、医療政策会議を三大会議と位置づけています。

髙久先生には、生命倫理懇談会と学術推進会議の2つの議長としてお務めいただきましたが、生命倫理懇談会の座長は平成12年度から令和元年度まで20年間にわたり取りまとめていただきました。その中でも終末期医療に関し、多くの時間を割いて検討いただき答申としておまとめいただいています。終末期の医療がどうあるべきか、国民のコンセンサスが取れていない時期から人生の最終段階の医療のあり方について、超高齢社会を迎えたわが国のあり方に多くの示唆をいただき、アドバンス・ケア・プランニングの重要性を指摘され、実践にあたっては、地域包括ケアプランニングの中で、かかりつけ医を中心に多職種が協働し、地域で支える視点を重要視され、人生の最終段階における医療・ケアの方針決定に至る手続きを明らかにされました。現在、多くの医療現場で活用され、高齢者の方は安らかな人生の終末を迎えられています。

学術推進会議では医療の質の向上に向けた検討を行っていただき、「科学的根拠に基づく医療(EBM)と診療ガイドライン」「専門医のあり方」「かかりつけ医の質の担保」など、多岐にわたる提言をいただき、新たな専門医機構や専門医としての総合診療医が実現し、わが国の医療の質の向上に大きな力になると思います。医療安全にも大変なご尽力をいただき、日本医療安全調査機構で予期しない死亡の原因を調査し、再発防止を図ることにより医療の安全を進められました。
先生は医学のみならずわが国の医療体制に大きな道筋をつくっていただきました。有難うございました。

髙久史麿先生を偲んで─髙久先生の懐の深さで実現した医学会の法人化

一般社団法人日本医学会連合/日本医学会長 門田守人

髙久先生は、日本医学会・日本医学会連合の会長を退任された時、ある雑誌社のインタビューで「日本医学会長として取り組んだことは」の質問に対して、「一番の取り組みは日本医学会の一般社団法人化です」と答えられています。66年振りの大改革をご自身でも強く認識されてのご回答だったと思います。実は、先生は2004年に日本医学会長に選任されて最初の日本医学会定例評議員会において、「医学会が、日本医師会に属する事が医師会の定款になっているが、そのような状況で良いのか、今後慎重に検討していきたい」と述べられ、当初から問題意識を持っておられ、「日本医学会あり方委員会」を新しく設置されました。結果的に、2014年4月に日本医学会から一般社団法人日本医学会連合が誕生したのであります。ここでは、先生とはそれまではお付き合いのなかった筆者の最初の出会いのエピソードを紹介したいと思います。

筆者が日本医学会に関係するようになったのは、2006年に日本外科学会長に就任し、一分科会長として医学会と直接関与するようになってからであります。日本外科学会長には、日本消化器外科学会や日本心臓血管外科学会等のサブスペシャルティ学会との連携のあり方、専門医制度、法人化や財政問題等、多くの課題がありました。また同時に、上部組織である日本医学会のことについても分科会自らの問題でもあると考えることが必要と思ってきていました。そのようなタイミングで、医学会を介して医師会から分科会に頂いていた補助費の問題が出てきて、学術団体として利益相反の観点から果たして正しいことであろうか、と疑問の声が挙がってきました。そこから徐々に問題意識が広がり、医学会の改革も必要では、と考えるようになりました。そこで、医学会の臨床系分科会有志で集まり意見交換しようということになり、日本外科学会と日本内科学会の提案で、2006年の暮れに臨床系学会連絡会議(仮)を開くことになりました。しかし、この話は分科会同士の連絡会で、医学会の髙久会長には相談することなく進めていました。

この件について、真偽の程はわかりませんが、髙久先生がご立腹との噂を耳にし、早速その件について髙久先生に説明に行くことにし、11月23日、先生にお会いしていただくことになりました。今まで個人的には存じ上げない髙久先生にお会いするのですが、ご機嫌斜めの先生の顔を想像しながら、恐々と会いに行ったことを今でも鮮明に覚えております。しかし、そこにおられたのはそんな気配をまったく感じさせない温和な髙久先生でした。ホッとしたというのが正直な気持ちです。そして、連絡会議の開催を快くお認めいただくと同時に「12月8日の会には自分も出席したい、そして皆さんの意見を聞かせて欲しい」と言われたのであります。当日は、髙久先生ご出席のもと、48の臨床系分科会が日本外科学会会議室に集まり、忌憚のない意見交換ができました。そして、種々の改革案が出され、翌年2月の定例評議員会でこの時の内容が会長提案として示され、部会の再編や臨床部会連絡協議会の発足等が決められ、こうして医学会の改革が始まったのであります。

それから8年を経て2014年に日本医学会連合の法人化が実現したのであります。この間、さらに多くの難題にもぶつかりましたが、髙久先生の懐の深さによって悉く問題が解決されていったと思います。

本当にありがとうございました。謹んでご冥福をお祈りいたします。(合掌)

髙久先生のこと

NTT関東病院顧問 浦部晶夫

髙久史麿先生が令和4年3月24日に亡くなられた。半世紀にわたり親炙した恩師を失った今、先生への思いがとりとめなく胸中に去来し、考えがまとまらない。先生の多方面の業績や社会的功績については他の方々が語られることと思うので、ここでは不肖の弟子の思い出話の一端を書き記すことにしたい。

髙久先生の思い出は東大第三内科の医局生活の思い出と重なることが多い。東大第三内科では、医局で行う歓送迎会のことを「赤十字」と呼んでいた。髙久先生が昭和57年7月に教授として着任された時の「歓迎赤十字」では、医局は医局員でいっぱいになり、先生が入って来られると万雷の拍手が沸き起こった。

先生はきわめて勤勉で、毎朝7時半から7時40分の間に出勤された。すぐに医局の小母さんである佐川さんがお茶を持って教授室に入り、佐川さんが出てくるのを待って私は教授室に行き、御用を承る毎日が続いた。

先生は、各方面からのお願いごとを聞かれるとすぐに動かれた。何かお尋ねすると即座に適切な意見を述べられた。判断を誤ることがなかったのは先生の優れた資質であったと思う。星霜移り、先生が退官される時の「送別赤十字」では、多くの医局員が涙を隠すのに困った。

先生は多くの人に好かれる人間的魅力を備えておられた。お話にはユーモアがあり、それは英語の会話でも同様で、外国の人達からも好かれていた。先生が亡くなられた翌週に、アメリカの友人のマーフィー博士から「髙久先生はお元気ですか」とメールがあり、私は返事を書きながら悲しみに暮れた。

先生は今年になって体調を崩され入院しておられたが、最後の2週間をご自宅で過ごされ、ご長男の順天堂大学准教授の智生さんに看取られて91歳の生涯を終えられた。智生さんのお話では、意識もはっきりしていて、苦しまれることもなかったとのことである。新型コロナウイルスの影響でご入院中にお見舞がかなわず、お話を伺えなかったことは誠に残念であった。私が聞いた先生の最後のお言葉は、昨年7月、奥様のお通夜の席でお会いした時の「90になるとなかなか大変だよ」であった。先生の笑顏を思い出しながら、悲しみと感謝の念を深くしている。

髙久史麿先生を偲ぶ

自治医科大学学長 永井良三

髙久史麿先生には、東京大学第三内科教授にご就任された昭和57(1982)年以来、40年にわたってご指導をいただいた。医局の会議で着任の挨拶をされたが、「東大は人材の『倉庫』である」と切り出され、一同に緊張が走ったことを覚えている。このときに、「(選挙で選んでいた)助手の選考方法を変える」、「教室のテーマを『癌と動脈硬化』とする」と方針を示された。この夜の会議は、私だけでなく、多くの第三内科の若手に影響を与えた。

その後、先生は分子生物学を教室に導入され、領域横断的な研究室を新設された。優秀な医局員が集まり、やがて医学界で大きく羽ばたいていった。東大教授の在任期間は8年に満たなかったが、これだけ大きな教室改革を行った教授は他にいなかった。

髙久先生の生い立ちは、日本経済新聞の「私の履歴書」に詳しい。「僕は緊張したことがないんだよ」と言われたことがあるが、生来、強い胆力を備えていらした。少年のように純粋なところもあり、東大教授時代に始めたテニスに熱を入れられた。旧制五高時代に卓球でインカレに出場されたとのことで、運動神経には自信をお持ちだった。テニスを愛され、手を抜くことがなかったので、我々も懸命にお相手をした。

平成11(1999)年、私が東京大学循環器内科教授に着任して間もなく、「個人情報保護法と医学研究」が議論となった。先生から政府のWGに推薦され、随分勉強させていただいた。医療の質と安全にも熱心に取り組み、ディオバン事件では、調査をして日本医学会に報告するように求められた。

自治医科大学ご退任の話は、東日本大震災の1週間前にお聞きした。永田町の都道府県会館にある学長室に呼ばれ、「来年3月に退任する。次の学長を任せたいので、準備をしておくように」と伝えられた。業務の引継ぎは簡単だったが、「自治医科大学は、全国の卒業生の活躍で成り立っているのだよ」と言われた。先生は開学期に教務委員長を務められ、「一期生の卒業式の校歌斉唱で、涙が溢れて止まらなかった」と話されたこともある。自治医科大学への思いだけでなく、先生の医学の原点を語られたのだと思う。自治医科大学は、本年5月に創立50周年を迎える。昨年末の座談会では、要を得て簡潔に、創立当時のお話をされていた。「努力」が信条の先生であれば、100歳までお元気にご活躍されると思っていたが、突然の訃報に胸の詰まる思いを禁じえない。先生のご指導に感謝申し上げるとともに、ご冥福を心よりお祈りいたします。

お別れのことばにかえて

筑波大学医学医療系血液内科教授 千葉 滋

髙久史麿先生は、東京大学の扉を他大学卒業者にも大きく開放されました。その恩恵に与って学ぶことができ、また、かけがえのない多くの出会いを与えていただいたことに、まず感謝しなければなりません。

髙久先生は50代で始められたテニスを晩年まで愛され、その方面でも数多くの仲間をつくられました。私も学生時代の部活動に背中を押され、正月の神宮外苑、初夏のインスブルック、冬のニューヨークで国連ビルを見下ろす高層ビル内など、先生とテニスコートで多くの思い出があります。しかし、言うまでもなくテニスは先生のごく一部です。見当がつかないほど沢山の方々が、様々な髙久先生の姿を瞼に浮かべながらご自分の人生を振り返っているに違いありません。

大学院生のとき、症例報告を書いて草稿を先生にお見せしました。翌日だったか数日後だったか、「N Engl J Medに投稿したらいいんじゃないか」と言われて大変驚きました。実際に掲載されたのは別の雑誌でしたが、人を感激させるのは一人ひとりをしっかり見ているという、言外のメッセージかもしれないと今更ながら思いあたります。私が筑波大学に赴任したての頃、「“教授業”はどうですか」、と声をかけていただきました。医局員を個別に大切にしているか、という意味だったのかどうか。

それからしばらく経った頃。名教授になる秘訣を聞き出すことなどできないと承知で、お尋ねしたことがあります。「教授というのは、先生のようにいつもジョークで周囲を笑わせることが大事なのでしょうか」。先生の目の奥がきらりと光った(よくわかっているじゃないか)。「そうです、その通りです、医局員を笑わせることが大事です」、とおっしゃいました。やっぱりそうなんだな。しかしわかりきったこと、そうしたいと思うのと、そうできるのとは別問題。私が多少の努力を重ねたところで、空回りが続いています。髙久先生の人の心をつかむ話術はひとえに才能と納得しています。

最後にお会いしたのは最愛の奥様の告別式でした。先生のご挨拶は冴えていて、奥様と63組の結婚式の仲人をされた話は、葬儀の場をあたたかな笑いにつつみました。変わらぬお人柄が溢れるお話ぶりは健在で、半年あまり後に身罷られるようには見えませんでした。最期も鮮やかな印象を残して旅立たれました。


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