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吉村昭の『患者さん』─続・文学にみる医師像[エッセイ]

No.5026 (2020年08月22日発行) P.64

高橋正雄 (筑波大学名誉教授)

登録日: 2020-08-23

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吉村昭が1974(昭和49)年に発表した『患者さん』(毎日新聞社刊)に収められている「夜道と町医」には、戦前から終戦直後にかけて吉村が出会った2人の名医が描かれている。

菅井医師

吉村が「記憶に残る」と語る医師の一人は、戦前、日暮里に住んでいた頃のかかりつけ医・菅井医師である。日暮里の駅前で開業していた菅井医師について、吉村は、「名医の評判が高く、言葉づかいも物柔らかで、私は立派で優しい先生として子供心にも尊敬していた」という。

診察室での菅井医師は、「どうした。どこが悪いんだな」と、穏やかな声をかけてくるのが常だった。彼は、「今の言葉で言えば流行医であったが、古びた医院は増改築されることもなく、待合室の畳は赤茶け、大火鉢がただ一つあるだけの殺風景な部屋であった」。

この清貧を貫いた菅井医師も、吉村が小学校に通っていた頃、亡くなった。医院を継ぐ人もいなかったらしく、医院は閉ざされ、いつの間にか古びた建物も壊されてしまった。

吉村は、今でも日暮里の駅に降りると、左手に建っていた菅井医院の建物が思い出されると同時に、「金銭に執着もなく医業に一生を送った菅井先生の清廉な人柄が偲ばれる」と語るのだが、名医をもって鳴る菅井医師の診療行為にも、いささか疑問に思われる部分もないではない。

それは、幼い子どもを抱いてプラット・ホームから電車に飛び込んだ女性に対する対応である。この時、幼な児は即死したものの、母親は奇跡的にかすり傷程度の怪我で助かったのだが、菅井医師は「女の不心得をじゅんじゅんとさとした」という。しかし、この女性は、それから1カ月後に再び電車に身を投じて、自殺したのである。

おそらく、この時菅井医師が取るべき態度は、女性の不心得を諭すことなどではなく、自殺の再発を防ぐべく、自殺を図るまでに追い詰められた彼女の思いを聞き、必要ならば具体的な問題の解決を図るなり、「顔は土気色をしていたが奇妙な薄笑いの表情をうかべていた」という女の様子から判断して、より専門的な医師を紹介することだったのではあるまいか?しかるに、吉村の記述を見る限り、女性が依然として危機的な状況にあることを悟らず、道徳的な説諭をした菅井医師の対応には、今日から見れば欠けるところがあったのではないかと思われるのである。

蓮沼医師

終戦の年の4月、日暮里の町は空襲で焼き払われたため吉村の家は足立区に引っ越したが、戦後間もないある日の夕方、53歳になる吉村の父親は、入浴後すぐに顔色を変えて出てきた。ひどい眩暈がすると言って蒲団に身を横たえた父親は、斗酒をも辞さぬ酒豪だったため、「脳溢血だ」と言って眼を閉じた。父方の祖母も脳溢血で亡くなっていたこともあって、父親が死ぬと思った吉村は、とりあえず医師の診断を仰ぐ必要があると思ったが、疎開したばかりなので、近所に顔なじみの医師はいない。

それでも近くに医院があったことを思い出した吉村は、その医院を訪ね、看護師に父親の病状を告げて、往診してほしいと頼んだ。しかし、看護師は「忙しいから、往診できないわよ」と、素気なく断ったので、吉村はなおも往診してほしいと懇願した。すると、待合室のガラス戸が開いて小柄な医師が姿を現したが、「傲慢な表情」を浮かべたその医師は、次のように言って、ガラス戸を閉めた。「突然飛びこんできたって行けやしないよ。私が治療してやっているのはね、食糧をふだんから持ってきてくれたりしている人にかぎっているんだ。あんたのところからは、なにももらったおぼえはないよ」。

いかに、食糧が尊重される時代とはいえ、医師と患者の関係にまで食糧が介在するとは思いもしなかった吉村は、呆然とした。「町医は、医師不足に乗じて患者から食糧をかすめとって治療に当たっている」─、そうした医師の不遜さが、若い吉村には許しがたい行為のように思えたのである。

しかし、家で横たわっている父親のために、医師を探さなければならなかった吉村は、かつて住んでいた日暮里へ行くことにした。1時間ほどして日暮里に着いた吉村は、友人宅を訪ね、家を焼かれた蓮沼医師が、高台の寺に仮住まいしていることを知ったのである。

しかし、それまでまったく交渉のない蓮沼医師にこんな時だけ往診を依頼するのは、いかにも身勝手に思えた。それに、吉村が知っている蓮沼医師は、診断は正確という噂だが、「いつも表情の乏しい硬い顔つきをして歩いていた」人である。そんな医師が、5km以上も離れた足立区まで往診してくれるとは思えない。

しかし、吉村の話を聞いた蓮沼医師は、黙って黒い鞄を持ち、自転車を押して出てきた。蓮沼医師は、焼跡の中の道を黙々とペダルを踏み、隅田川を超え、西新井橋を渡って、吉村の家に着いた。蓮沼医師の姿に驚いた父親は深く礼を言ったが、蓮沼医師は診察を終えると、再び夜の道を帰って行った。

その後も蓮沼医師は、遠い道を定期的に往診し、ある時父親ががんであることを告げて、日本医大に入院するよう勧めてくれた。吉村の父親はその年の暮れに亡くなったが、吉村は、父親を思い出すたびに、焼跡の道を蓮沼先生の自転車の後を追うように駆けた夜のことを思い出すという。そして、殺伐とした時代であっただけに、今でも先生に感謝していると語るのである。

吉村は、このように彼の人生で出会った2人の名医の思い出を語りながら、そこに医師としてのあるべき姿を見て、次のように述べている。「菅井先生は流行医であったが、貧しい者には診療費を請求せず建物も古びたままであった。そうした生活態度は実に清々しく、その根底に医師としての自覚が感じられるのである」、「蓮沼先生は、見も知らぬ18歳の私の乞いを入れて、往復10キロ以上もある夜道を往診して下さった。それは蓮沼先生が医師とはどのようなものであるかを知っておられたからであり、そこに患者とその家族の感謝も生まれるのである」。

ここに描かれているのは、いつの時代も変わらぬ庶民が理想とする医師像であるが、おそらくこの時代、全国には百の菅井医師、千の蓮沼医師がいたのである。

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