「がれきの下で元気だった人が救出後に急変」「被災地の病院から転院できずに死亡」─災害下でのこうした死は阪神・淡路大震災を機に、「防ぎうる災害死」として認知され、DMATに代表される災害医療体制の構築につながった。
災害医療の“原点”から20年。災害急性期医療の進歩と課題について、兵庫県災害医療センターの中山伸一センター長に伺った。
阪神・淡路大震災を機に、「防ぎうる災害死」を少しでも減らそうと、DMATをはじめとする災害医療体制の整備が進められてきた。
DMAT創設後、特に進歩したのは、情報収集と派遣の「迅速性」。東日本大震災では、DMATはいわて花巻空港を拠点に沿岸部へ自衛隊機を飛ばし、ステージングケアユニット(SCU)を利用した「広域医療搬送」を行った。
救急車による域外搬送も進歩の1つだ。被災地の医療機関で抱え込めない中等症以上の患者の転送では、急変に対応できるようDMATが救急車に同乗し、手厚い医療の継続を保障しなければならない。これも過去の教訓あっての災害医療だ。
隊員の教育体制は発展途上だが、全国統一のカリキュラムで研修を行い、全ての隊員が災害急性期医療のノウハウ、ロジスティックを共有している意味は大きい。大災害の最初期の支援は、ひとまずDMATに任せてもらっていいと思う。
一方、課題として残っているのは「医療救護チーム間の業務の引き継ぎ」と「受援体制の構築」だ。東日本大震災では、支援側と受援側の間で、何をどの程度助けるべきかについて意識を共有できていなかった事例が見受けられた。
「DMATは重傷者だけ診る」とか「48時間経ったら撤退する」という役割の刷り込みもあった。津波が押し寄せた沿岸部では、被災者が医療機関に来院するピークが阪神・淡路大震災や中越地震より遅く、水が引いた発災翌日以降だったが、その前にDMATが移動・撤退し、最大限の支援ができなかった地域もあった。
こうしたことから、発災後48時間を超えても支援を継続する必要があることが強く認識され、二次・三次隊など長い目での派遣や、DMAT以外の救護チームへの引き継ぎを再考するきっかけとなった。
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