以前の本連載(No.5284)では、始まったばかりの急性呼吸器感染症(acute respiratory infection:ARI)サーベイランスの制度設計上の問題点を指摘した。さらに、その1年後の前2稿(No.5331、No.5334)では、「新しい感染症の出現を素早く検出する」という心地よい響きを持つ説明が、実際には絵に描いた餅にすぎないということを論じた。
筆者の研究室ミーティングでこの話題を取り上げた際も、このシステムによって新たな感染症を世界で初めて発見することはほぼ不可能、という点については皆異論がなかった。ところが、やはり複数人による考察の力である。別の視点が出てきた。そして、それこそが、このサーベイランス事業の本当の意義なのではないかと気づかされた。
それは一言でいえば、地方衛生研究所(衛研)の検査態勢、検査技術の維持である。
シナリオはこうである。日本以外のどこかで新たな感染症が出現した。その後、当事国あるいは感染症関連技術に優れた国の努力によって、原因病原体が特定され、その情報が世界中にもたらされる。わが国でも、感染症情報や病原体検出用PCR検査の技術情報が、中央から地方レベルへ速やかに共有される。
しかし、それを実際に使いこなすためには、当該感染症に特化した患者・病原体サーベイランスを遅滞なく実施できる体制が必要である。そのための態勢を、平時から整えておく必要がある。そして、実際にそのような事態が起こるのが何年後、何十年後になるかわからない中で、それを維持し続けなければならない。その役割を担うものとしてARIサーベイランスが存在する、というわけである。
逆に、もしこれがなかった場合を考えてみよう。COVID-19のパンデミックでは、高額なリアルタイムPCR機器が国費によって各地方衛研に整備され、フル回転で使用された。また、そのための人材も結果的に育成された。しかし、パンデミック特需が終わり、衛研が通常の業務態勢へ戻った後、このまま何もしなければどうなるか。従来のサーベイランス体制ではPCR関連の予算は十分に確保されず、そのときに活躍した人材も行政組織特有の人事異動によって配置転換される。結果として、培われた技術が継承されず、いずれ「開店休業」となることは容易に想像できる。これでは、いざというときに間に合わない。そうならないようにしておくことも、新興感染症対策としてはきわめて重要である。
これは、昔の給湯器のようなものだ。いつでも最大火力で着火できるよう、常に種火を燃やし続けている状態である。国民の税金で整備した高価な機器を持ち腐れにすることも、別の意味で問題である注。ただ行政からは、「地域全体を巻き込んだ新しいサーベイランスは、そのためにある」とは、なかなか言いだしにくいだろう。
ARIサーベイランスに関する非現実的とも言える目的説明の裏側には、地方衛研の検査体制と技術を維持するという、もう1つの重要な意義が隠されている。これが、わが研究室でのブレイン・ストーミングから得られた結論である。
注 お隣の中国では、COVID-19対策として全国民を対象としたPCR検査が繰り返し実施され、そのためにわが国とは比較にならない数の高性能PCR機器が各地に整備された。現在では、地域の医療機関を訪れた呼吸器感染症患者から日常的に検体を収集し、リアルタイムで病原体を検出するシステムが構築されており、それらの機器がその中核を担っているとされる。
西村秀一(独立行政法人国立病院機構仙台医療センター臨床研究部前ウイルスセンター長)[急性呼吸器感染症][サーベイランス][PCR検査]