1921年 - 1930年
1921年(大正10年)
1号
2月5日
『創刊号』
「宣言」、「指針」實地家の陥り易き誤り、「重要問題」妥恊案全く破れ、再び劍戟の間に相見えん-日本藥剤師會昂然として宣戦す、大日本醫師會側の對應策は如何。「講演」歐洲戰争に用ひられたる毒瓦斯に就て
など
ダウンロード
5号
3月15日
大日本醫師會-北島多一博士の談『醫藥分業になった曉には』を小冊子と爲し都會地各醫師會へ配布す
12号
5月25日
業務上使用すべき廣告制限問題起る-「米國醫學博士」や「人膽液注射」偖は「治療責任」の怪廣告珍廣告
1922年(大正11年)
33号
1月1日
健康保險法案公表せらる-目下主として保險法のみ研究、但し豫め大に警戒を要す可し
62号
10月15日
關西の風雲極めて急也、醫業不安の危機到る-破綻は一角より動亂は全般へ
1923年(大正12年)
1924年(大正13年)
128号
8月15日
爲政者衞生事業に就き善處するの覺悟ありや-若槻内相は衞生問題に言及せず、山田衞生局長また止むを得ないと!!
137号
11月5日
體育研究所官制決定
1925年(大正14年)
150号
3月15日
原案を殆ど骨抜きにして混販問題の解決された日-栗本案遂に中央衞生會總會に可決さる-直に法制局及び閣議の審議を終りて
151号
3月25日
衆議院本會議に於ける上程劈頭の大論戰-八代議士交々壇上に立ち前後4時間に亘る、若槻内相と片岡次官論難攻撃の矢面に立つ
152号
4月5日
説苑「結核豫防の急務」北里柴三郎
168号
9月15日
コレラの病毒は關東地方に特に濃厚也-初發以來既に104名の患者、防疫官總動員で必死の防備
170号
10月5日
日本醫學会の統一成る、舊套を脱し新趣好の明春開催の第7回總會。朝鮮醫學会第13回總会
175号
11月25日
外國技術官の目に映じた我が國の衞生施設-國際衞生技術官批判會議
176号
12月5日
連絡委員を設け國際聯盟衞生部に接近-醫界近來の快擧
1926年(大正15年)
206号
7月11日
ペストの侵襲に際し防疫當局の豫防施設-鮮やかになつた防疫方針、この際死體檢案を怠るな
222号
10月30日
『健康保險特輯號』健康保險法規集
1927年(昭和2年)
1928年(昭和3年)
296号
4月14日
罰則を削除し骨拔きとして處方箋省令公布せらる-日本醫師會漸く胸を撫で下ろす。幸に罰金刑の附設を免れしも、藥劑師側の策動に注意を要す
315号
8月25日
注目すべき療養給付方針、船員保險法の要綱全文-社會局參與會議に附議せらる
329号
12月1日
又候頭を擡げた「健保」の醫藥分業問題-日本藥劑師會が社會局に藥劑支給は本會一任へと建議-醫業界の刮目を要せん
330号
12月8日
保險醫の金科玉條たる「健保」診療方針公表さる-社會局苦心10箇月の作
1929年(昭和4年)
363号
7月27日
内相諮問救療施設普及に關し、全國醫師會の答申意見成る-日醫は綜合統一して作製す。
1930年(昭和5年)
399号
4月5日
第8回日本醫學會-萬國醫學會の實を兼ねて大阪に開く
413号
7月12日
眞摯熱烈の氣分横溢せる日本醫界刷新聯盟創立總會-不覊獨立の立場を確守して醫政調査と實行に邁進せん
1931年以降は無料会員登録でご利用いただけます
会員登録済みの方はログインの上ご利用ください
会員登録済みの方はログインの上ご利用ください