株式会社日本医事新報社 株式会社日本医事新報社

CLOSE

法医学の歴史【検死制度の歴史を明らかにすることは,死因究明制度の意義を明確にする】

No.4893 (2018年02月03日発行) P.51

石川隆紀 (大阪市立大学法医学教授)

石原憲治 (千葉大学法医学,京都府立医科大学法医学特任教授)

登録日: 2018-02-06

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

西洋では,中世後期の13世紀頃になると人体の解剖がさかんに行われ,16世紀には刑事事件の際,医師の助言の必要性が法律に明記されるなど国家的要請も加わり,17世紀初頭には学問としての法医学が確立したと言われている。東洋においては,中国で南宋時代に『洗冤録』が刊行されるが,医師の関与というよりは検視を行う官吏の視点が強い。1308年に元の王興によって,『洗冤録』を基盤とした『無冤録』が刊行され,これがわが国に伝わり,1736年に河合甚兵衛尚久によって翻訳され『無冤録述』として出版された。わが国では,杉田玄白らによりオランダ語の解剖書が和訳され,1774年『解体新書』として刊行されるものの,検死制度との関連には至っていない。

明治維新期に入ると検死制度について刷新が求められ,1875年,警視庁はドイツ人解剖学教師Doenitzをまねき,裁判医学校を設立し解剖や検査を行った。日本人として初めて法医学を確立した人物として知られる片山国嘉は,国費によるドイツ・オーストリア留学後,東京大学で裁判医学の講座を開き(88年),後に裁判医学を「法医学」と改称した。片山は法医学を「医学および自然科学を基礎として法律上の問題を研究し,又之を鑑定する学」と定義し,裁判医学という鑑定に偏った名称から,より広い概念を示す法医学に変えた1)。それら歴史的流れは,死因究明制度の全般の発起点になるものと解釈される。

【文献】

1) 石原憲治:日医史誌. 2013;59(3):419-24.

【解説】

石川隆紀*1,石原憲治*2  *1大阪市立大学法医学教授 *2千葉大学法医学,京都府立医科大学法医学特任教授

関連記事・論文

もっと見る

関連物件情報

page top