検索

×
絞り込み:
124
カテゴリー
診療科
コーナー
解説文、目次
著者名
シリーズ

■NEWS 森・小泉内閣で厚労相を担当、医師の坂口力氏が死去

登録日: 2026.08.14 最終更新日: 2026.08.14

お気に入りに登録する

公明党の元衆院議員で厚生労働相、党副代表などを歴任した医師の坂口力氏が8月7日、老衰のため高松市内の老人ホームで死去した。92歳だった。公明党が12日発表した。

衆院議員として活躍していた頃の坂口氏

坂口氏は1960年三重県立大(現三重大)医学部卒。1972年衆院選で初当選。細川内閣で労働相として初入閣。森内閣で省庁再編後の初代厚労相に就任し、小泉内閣でも留任した。2012年衆院選に出馬せず政界を引退した。

■厚労相時代に医療制度改革「坂口私案」発表

厚労相時代、ハンセン病の国家賠償訴訟で小泉純一郎首相(当時)に控訴断念を進言し実現させたほか、公衆衛生・予防医学を重視する立場からBSE感染牛問題などに対応。

2002年には医療制度改革の「坂口私案」を発表し、保険者の再編・統合、「ドクターズフィー的要素」と「ホスピタルフィー的要素」への診療報酬体系の再編などの必要性を訴えた。

日本医事新報には1973年4月14日号の「人」欄で初登場。医界から政界に活動の場を移した坂口氏の人となりを伝えた当時の記事を再録する。

【人】坂口 力(さかぐち ちから)氏

昨年暮の衆院選で公明党は、それまで同党唯一の医家議員だった古寺宏氏を失うという苦杯を喫したが、入れかわりに、やはり医師で今年38歳という少壮の新人を三重1区から迎え入れることに成功した。いうまでもなくこの坂口力氏である。

静かな感じはとてもそうは思わせないが、とにかく地元は回ったそうだ。それまで主張の面で何となくつながりのあった党から出馬をすすめられたのが一昨年の夏。半年たって決心し、ちょうど昨年の今ごろは、住民が医療をどう考えているか、健康相談をしながら聞いてまわっていたという。

これが坂口さんにはいい勉強になったようだ。病院と地域とが違うということを文字通り“体験”した。あちこちの病院を巡り歩いている患者、医者にかかりたくてもかかれないまま諦めている老人。病院の外にでて住民と話すことによって初めて、医師と患者の関係をむしろ拒否しようとする制度に埋もれている多くの人間をみることができたという。

もちろん、問題は制度ばかりではない。が、少なくとも皆保険の時代にありながら、その機会に疎外され、石のように黙している多くの人間がいることを顔つきあわせて知ったとき、そして皺の一本一本に諦めを刻み込んだ老人の顔に喜びをみたとき、あとは遮二無二だったという。疑いもなく熱血漢なのである。

三重県松阪から名松線をくだると、あたりにもう緑の山々が続くところに一志郡白山町がある。昭和9年4月1日、当時は境村といったこの山の中の町で坂口さんは生まれた。小学校に入ったとき新入生が16人もいたのが村はじまって以来だったという。

やがて坂口さんは松阪北高(いまの松阪工高)から三重大の教育学部に入っている。村出身の教師になるはずだったらしい。が、事情が変わって県大医学部へ移り35年に卒業、さらに衛生学をやるために大学院に進み、昭和40年にそこを修了している。

当時は予防医学という面から小児保健を目指していたという。しかし、運とは不思議だ。スイスへ留学する予定が駄目になり、2、3カ月ばかりと手伝いに行った県血液センターに昨年まで7年間の身を置いている。

その間、所長としていわゆる三重方式という献血制度を作ったのもこの人だ。血液の一部で献血者の健康診断をする方式で、いまはこれが全国的にとりあげられようとしているというから、努力の甲斐があったというものだろう。

昨年4月、そのセンターを「二階から飛びおりるつもり」でやめ、議員となって4カ月、ようやく体制がためも一段落したというところらしい。好きな言葉を聞いたら「静中動」と言った。「力さん、力さん」と話しかける地元の人は、そこに村長だった父君を合わせみているのかも知れない。社労、公害対策特別委員。

(日本医事新報 1973年4月14日号)


1