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【追悼】昭和天皇の執刀医 森岡恭彦先生

登録日: 2026.02.06 最終更新日: 2026.02.09

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昭和天皇の執刀医として知られ、日本医事新報の好評企画「臨床医学の展望」の監修者を長年にわたり務めた外科医の森岡恭彦氏(東大名誉教授、自治医大名誉教授、日赤医療センター名誉院長)が昨年12月17日、脳梗塞のため逝去した。享年95歳。
森岡氏は1930年東京生まれ。1955年に東大医学部を卒業した後、同大第一外科教室に入局。自治医大消化器外科・一般外科教授などを経て1981年に東大第一外科教授に就任(1986~88年は東大医学部附属病院長併任)。東大病院長時代に宮内庁病院で行われた昭和天皇の開腹手術の執刀を担当した。日赤医療センター院長、日本医師会副会長・参与などの要職も歴任した。
外科学のみならず、「医の倫理綱領」策定などを通じて日本の医療全体の向上に貢献した故人の功績をよく知る横倉義武氏と跡見裕氏に追悼文を寄せていただいた。

東大病院長時代の森岡恭彦氏

日本医療界の良心、森岡恭彦先生を悼む
──「医の倫理」の灯を掲げ、外科医の魂を導いた偉大なる先達

横倉 義武 社会医療法人弘恵会理事長、日本医師会名誉会長

令和7年12月17日、日本の医学・医療界の精神的支柱であった森岡恭彦先生が、95歳の天寿を全うされました。私にとって森岡先生は、外科医という過酷な職分を全うされた大先達として、常に畏敬の念を持って仰ぎ見る存在でした。

私が先生との直接の知己を得ることができましたのは、医師会活動を通じてのことでした。医師会でお目にかかる中で直接ご指導を仰ぐ機会に恵まれ、先生の内に秘められた医療倫理に対する情熱と、後進を慈しむ温かさに触れることができました。先生から賜った教えは、私にとって医師人生を照らす確かな光となりました。

医師会活動における森岡先生の最も偉大なご功績は、日本医師会「会員の倫理・資質向上委員会」の委員長を20年以上にわたり務められ、日本の医師が守るべき精神の背骨を築き上げられたことです。その象徴が2000年に策定された「医の倫理綱領」です。先生は、米国医師会のコードなどを深く研究されながらも、単なる翻訳ではない、日本の土壌に根ざした倫理の在り方を模索されました。わずか6項目の簡潔な綱領の中に、医師が患者と向き合う際の宇宙的なまでの重責を凝縮させ、現代に即した「医師の誓い」として再定義されたのです。

さらに先生は、綱領を理想論に終わらせないために、2004年に「医師の職業倫理指針」をまとめ上げられました。これは、混迷する現代の診療現場において、医師がどのように判断し、行動すべきかを示す具体的な指針です。インフォームド・コンセントの本質を「権利の対立」ではなく「信頼関係の構築」であると定義された点、また、先端医療や終末期医療という正解のない問いに対しても、倫理の観点から果敢に議論をリードされた先生の姿勢は、私たち現場の医師にとって最大の救いとなりました。

先生と日本医師会参与の畔柳達雄弁護士と私との「医の倫理」についての鼎談の中で、先生が繰り返し説かれたのは、「プロフェッショナル・オートノミー(医師の自律)」の二面性でした。不当な外部干渉を排する自由を求めるならば、それ以上に自らを厳しく律し、常に自己を研鑽し続けなければならない。先生は全国のワークショップを通じて、この「自律と自浄」の精神を伝え続けられました。そのお姿は、技術のみを尊びがちな外科医という職種にあって、医療の根幹は「人と人の誠実な向き合い」にこそあるということを、誰よりも雄弁に物語っておられました。

私たちが歩むべき医師としての道について、先生は生涯をかけてその「在り方」を示してくださいました。先生は、医学の進歩が加速し、AIや生殖医療などの技術がどれほど複雑化しようとも、その中心には常に「奉仕の精神」がなければならないと説かれました。医師の生き方とは、単に病を標的とする技術者のそれではなく、患者の人生に責任を持つ「一人の人間」としての誠実さそのものです。国民皆保険を守り、すべての患者を平等に扱うといった社会的使命を果たすこともまた、医師に課された重き倫理性の一部であるという先生の教えは、現在の医師不足や働き方改革の中でこそ、噛みしめるべき至言であります。

「倫理とは各個人の自覚によるものである」。先生が遺されたこの言葉は、私たちに重い宿題を突きつけています。他者から強制されるルールではなく、己の良心に照らして最善を尽くすこと。医療が「仁術」という言葉だけでは済まされない時代にあっても、自問自答を続けながら、人として正しく生きること。それこそが、森岡先生が望まれた「真の医師」の姿であると確信しております。

森岡先生が掲げられた「倫理の灯」を絶やさぬよう、私たち後進はこれからも真摯に医療の道を歩み続けてまいります。外科医として、そして医師としての魂の糧を賜りましたことに、心より感謝申し上げます。大先達の安らかなる御冥福を、衷心よりお祈り申し上げます。

2020年の日本医師会雑誌新春鼎談で森岡先生(左)、畔柳先生(右)と

森岡先生を偲んで

跡見 裕 跡見学園理事長、杏林大学名誉学長

私は1970年に東京大学医学部を卒業した。当時は医学部に端を発した大混乱の最中ではあったが結婚をすることにし、東大第一外科の医局長であった森岡恭彦先生に媒酌人を頼んだ。森岡先生は「教授に頼まなくていいの?」と言われた。「教授会を批判していた者としては教授には頼まない」とお話しすると、ニヤッとしながら引き受けていただいた。

残念ながら奥様のご妊娠のことがあり、主賓で結婚式に出席いただいた。先生が1972年に自治医大の教授になられてからはご挨拶に伺う時にお目にかかるくらいであった。

私が医局長をしていた1981年、当時の教授の後任として森岡自治医大教授が決定と発表された。教室には驚きとともに、教室自体が大きく変わりそうだとの期待感が満ちていた。森岡外科が発足し教室の勢いは増し、研究面はもとより、医局行事も盛んとなった。ゴルフ、野球、テニス、スキーなどの定番に“皇居一周マラソン”が加わった。医局旅行や忘年会も参加者が増え、毎年盛会になっていったが、これはまさに森岡先生の人徳によるものであった。

1987年9月、森岡先生が昭和天皇の手術を担当されることになった。私も医師団の一員として診療に加わったが、これらの一連については多くを語ることはできない。術後の経過報道などで、毎日メディアに追っかけられた先生のご心労はいかばかりであったろう。

1991年に東大を退官されたが、その半年くらい前に後任の教授候補の選考があった。最終候補の3名の中に、助手の私の名があった。当時40代半ばで、学位も持っていない身としてはびっくりしたが、森岡教授はただニヤッとされていただけである。

私が杏林大学第一外科教授に決まった時、森岡先生からお祝いのネクタイをいただいた。今でも私にとっては大切な宝物である。

森岡先生から学んだことは数々あるが、一番心に残るのは「公平でありなさい」ということである。講演会などの後で、お酒をあまり召し上がらない先生とホテルのレストランでコーヒーを飲みながら過ごしたひと時に、公平であることの難しさを教えていただいた。

私は恩師と呼べる方がいる幸せを十分に味わってきた。奥様を交えてラウンドをしたペブルビーチゴルフコースの綺麗な夕日など、先生と過ごした日々は今でも懐かしく思い出される。

杏林大学図書館にて森岡先生(左)と


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