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【識者の眼】「『群れ』ではなく『集合』による医薬品の評価へ」小野俊介

登録日: 2025.11.13 最終更新日: 2025.11.13

小野俊介 (東京大学大学院薬学系研究科医薬品評価科学准教授)

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東大本郷キャンパスの観光名所・三四郎池には、丸々と太った錦鯉がたくさんいる。人間が無思慮に餌づけをしたせいで池の自然キャパシティを超える数が生息しており、東大は今後の対応を思案中。

ところで、鯉の英語carpは単複同型である。1匹はa carp。うじゃうじゃ群れる多数の鯉はmany carp。1匹ごとの区別はなく、群れの境界も怪しい。羊(sheep)や鮭(salmon)も同様である。

現在の承認審査などの医薬品評価では、人(患者)はまさにそのような「群れ」として扱われる。臨床試験では、母集団というあいまいな群れ(教科書には「仮想集団」とある)からテキトーに選ばれたサンプル(これも群れ)により創造された仮想人を念頭に「生存期間が6カ月延びました」などと報告される。臨床的意義やリスク・ベネフィットの評価でも、単数とも複数ともつかない群れが好き勝手に想定される。

「米国(人)の試験データを日本(人)に適用しうるか」は、グローバル新薬開発における重大な判断だ。しかし恐ろしいことに、そのような判断でも、登場する米国人も日本人も、三四郎池の鯉と同じように扱われる。個々の顔はなく、境界も不明で、総数(全体)すらあいまいな群れ。

そんな怪しい状況を脱する第一歩は、人を「群れ」ではなく、数学の「集合」として扱うことである。「ん? それって何が違うの?」と思われるかもしれぬが、まったく違う。根本的に違う。北京原人とクロマニョン人くらい違う。

人の集合は{a氏、b氏、c氏、……}。名前をつけずに{1、2、3、……}でもかまわない。要素は独立し、ダブりはない。境界も総数も明確。人の社会のモデルってそもそもそうでないと困るでしょ?

社会の意思決定理論(例:アロウの不可能性定理)は、社会の構成員の「集合」を土台にする。業界人の好きな「薬のリスク・ベネフィット」と称するものをまともに評価するのならば、幸せにしたい人の「集合」を考えるのは当然である。至適用量を決定する場合も、本来は「集合」が必要なはず(至適というくらいだから)。

前述の「米国人と日本人の有効性のブリッジング」も同様で、両国民を「集合」とし、位相(要素の近接関係)を入れた上で、たとえば両国民がどう似ているか(写像)の連続性を検討する、といった枠組みが本来必要なはず。

さらに、患者を「集合」として評価するようになれば、薬の有効性と安全性を切り離して評価するという、現在の奇妙な慣習も形を変えるはず。

多くの領域の学問が、「正当化の理屈の可視化」に向けて共同歩調をとっている今日この頃。100年後には、「昔はどうしてあんな行き当たりばったりの新薬評価がまかり通っていたのだろう?」と不思議がられているはず。この駄文が100年後のヒトの目にとどまりますように。

小野俊介(東京大学大学院薬学系研究科医薬品評価科学准教授)[医薬品評価

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