のび太が困ったときに泣きつくのは、いつも決まってドラえもんだ。ドラえもんが四次元ポケットから取り出すひみつ道具は、のび太がほかの誰からも手に入れられないほどに特殊なものである。医療者が提供する医療サービスも、ドラえもんのひみつ道具に匹敵するほどに特殊だ。
長い時間をかけて診療の技術と知識を学び、医療現場では医師同士や多職種間で喧々諤々の議論を重ねた上で、ようやく処方すべき薬が1つ決まる。これは“いつもそうだ”という訳ではないにせよ、我々医療者にとってはごくありふれた日常だ。医療という仕事は、医療専門職以外には担うことができない。投薬も処置も手術も行わず、オーガニック食品を摂取するだけで健康を維持できるというのは、マルチ商法か、質の悪い新興宗教にすぎない。
我々医療者は、のび太にとってのドラえもんのような存在だ。ところで、ドラえもんは、(衣)食住を野比家に支えられている。のび太の両親は、生活費を稼ぎ、家計のやりくりに頭を悩ませ、雑多な家事(事務、雑用)をこなしている。つまり野比夫妻は、親権者としてのび太の生存と尊厳に第一義的な責任を負っていると同時に、ドラえもんの生活も支えているのだ。のび太がいざというときにドラえもんを頼りにできるのは、ひとえにのび太の両親がドラえもんの存在を生活の中で保障しているからにほかならない。
ところで、社会保障の受給者を、「パイの切れ端を口を開けて待つ子ども」のような存在だと切り捨てた20世紀の哲学者がいる。独立独歩のリバタリアン、ロバート・ノージックである。ノージックが「我々は子どもではない」として社会保障を拒絶したのは、自己の尊厳ある生存を社会にゆだねることが惨めだと感じたからではない。給付の裏側に、他者からの強制的な負担があることを見抜いていたからだ。大して家事の手伝いもせず、勉学に励むわけでもなく、それでもいざというときにドラえもんを頼りにできるのは、漫画の中だけの話である。
現実の世界では、国民が保険料も税金も負担しなければ、それを元手にした給付の提供は当然不可能となる。医療も、介護も、福祉も、年金も、その他ありとあらゆる社会保障は、幅広い国民の負担を前提として成り立っている。その負担がどうしても嫌だというのなら、ドラえもんなきのび太の一生を、それぞれが個々に生きることになる。ノージックなら、それこそが「あるべき社会のあり方」だと主張するだろう。
社会保障はsocial choiceである。個人単位で「社会保障のある世界」と「社会保障のない世界」を選ぶことはできない。しかし、社会全体としてはどちらかを選ぶことはできる(というより、どちらかを選ばざるをえない)。ただし、選ぶことができるのは、「負担のある給付」か「負担も給付もない」か、あるいはその間のスペクトラムのどこか(たとえば、少しの負担と少しの給付とか)、だけである。負担のない給付など、漫画の中の野比家にしか存在しない。その意味で、「我々は子どもではない」といったノージックは、ドラえもんが漫画であることを誰よりもよくわかっていた。
森井大一(日本医師会総合政策研究機構主席研究員)[社会保障]