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思うに任せぬ現実を持ちこたえる

登録日:
2019-02-07
最終更新日:
2019-02-06

本気でキレるわけにはいかない

私が専門とする依存症臨床は、通常の感覚でいえば、腹の立つことの多い分野だと思う。依存症患者には「ああいえば、こういう」式に弁の立つ人が多く、医療者を批判する際にはこちらのかなり痛いところを突いてくる。アルコールや薬物の欲求に駆られながらもそれを我慢している患者は、医療者に妙な八つ当たりをしてくるのがつねであるし、断酒・断薬の強い意志を表明して入院した患者が、翌日には心変わりして性急に退院を要求してくるのも日常茶飯事だった。
そんなわけで、駆け出し時代、私は一体何度、「あーっ! ったくもう!」と、大声で叫びながらブチ切れたいと思ったことか。とはいえ、精神科医の数少ない商売道具は「冷静で、淡々とした態度」だ。まさか本気でキレるわけにはいかない。
いつ頃からか定かではないが、私は、依存症専門病院での診療業務が終わると、繁華街の一角にある、うらぶれたゲームセンターに日参するようになった。店に入ってそのゲーム機の、ラリーカーそっくりのシートに身を沈めると、その瞬間、私はコリン・マクレーになり変わった。そう、CG画面でリアルに再現される砂漠や雪原のコースを凝視しながら、汗だくになってステアリングを左右に激しく切り、Hパターンのシフトレバーをめまぐるしく動かし、コーナーというコーナーをドリフトで駆け抜けたのだ。
毎日やっていたせいで、腕前はかなり上達した。コースはすべて頭のなかにインプットされ、コーナーごとのブレーキングポイントや選択すべきギアも、全て身体が覚えた。まもなく私は、その店の最速タイムランキング常連となり、そのゲームに興じていると、周囲には学校を終えた中高生が集まってきた。そして、自分がステアリングを操作していると、背後から「見ろよ。この人、すげえ」と噂する声が聞こえたものだ。
あの頃、あの馬鹿げたゲームに一体どれだけの不毛な時間と小銭を費やしたであろうか。おそらく当時の私はちょっとした依存症の状態だったと思う。たとえば、友人との飲み会に行っても、「今日中に仕上げないといけない仕事があるから」などと嘘の言い訳をして一人早めに席を立ち、ゲームセンターに向かってしまう、といったことは一度や二度ではなかった。また、仕事をしていても、そのゲームのことを思い浮かべては、就業時間が終わるのが待ち遠しく感じた。

まやかしの万能感

 しかし、悪いことばかりではなかった。勤務時間中、意外にもこのゲームをめぐる空想が、自分の心の平静さを保つのに役立っていた。たとえば、ある日、院内で患者同士のけんかが始まり、病棟から緊急の呼び出しコールを受けたとする。「ち、またトラブルか」と内心舌打ちをし、ため息をつきながら、私は廊下を小走りに進む。すると、脳裏には空想のラリーコースが映し出され、私はそこを全開走行する錯覚の世界に滑り込むわけだ。私は、廊下の角を曲がるたびにシフトレバーを3速から2速に叩き込み、コーナーの出口を凝視する自分を想像する。馬鹿げた空想だが、そんな空想に耽っているうちに、不思議と波立った心は鎮まり、病棟に着く頃には冷静になっていた。そして、仕事が終わるのを待ちかねたようにゲームセンターに飛び込むのだった。
まるで一人遊びをする子どものように、夢とうつつの境を失い、空想上の万能感に酔い痴れてゲームに没頭する。確かに馬鹿げた行動ではある。しかし、思うに任せぬ現実の臨床を持ちこたえるために、私にはそうしたまやかしの万能感が必要であり、同時にそれが私のアンガーマネジメントだったのだ。

松本俊彦
まつもと としひこ:1993年佐賀医大卒。神奈川県立精神医療センター、横浜市大等を経て、2015年より国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所薬物依存研究部部長。17年より同センター病院薬物依存症センター長を併任。

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