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大村益次郎(10)[連載小説「群星光芒」279]

登録日: 2017.08.13 最終更新日: 2026.02.21

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順天堂医院の佐藤尚中が仕えた下総国佐倉藩(千葉県佐倉市)は譜代大名の中でもとりわけ将軍家と親しい名家であった。

「薩長側につくか」

「徳川家に殉じて徹底抗戦するか」

藩論は真っ二つに割れていた。

順天堂の佐藤泰然一族には旧幕臣が多く、徳川家に恩義を感じる尚中は薩長側に加担したくなかった。

鳥羽・伏見の戦いの際、尚中は会津藩主松平容保に頼まれて江戸に後送された会津藩の負傷兵を養嗣子の佐藤 進とともに芝新銭座の会津藩中屋敷で治療した。

しかも、尚中の義弟松本良順は会津藩を支援して鶴ヶ城下に応急の軍陣病院を設け、奮闘している最中である。

「負傷兵とあらば敵味方の区別なく救助するのが医師の務めである」

そういって懇々と説く大村益次郎の誠実な態度に尚中もついにうなずき、新政府の臨時病院に協力することにした。

益次郎が上野戦争の指揮をとっている間に、仙台藩を中心に秋田、南部、米沢、庄内などの東北諸藩と越後諸藩が結束して奥羽越列藩同盟を成立させ、会津藩救援を決議した。

新政府にとって徳川家につぐ最大の敵は佐幕派筆頭の会津藩である。

藩主松平容保は追討の朝命を知ると隠居して恭順の態度を示したが、もし攻撃を受けたならば藩の全力をあげて徹底抗戦しようと肚を決めていた。

軍制改革を行った会津藩は薩長などの西南諸藩にくらべて装備の近代化はいちじるしく立ちおくれていた。

とはいえ、藩の規律と統制ぶり、そして藩兵の果敢さはつとに鳴りひびいていた。

新政府は東北諸藩と越後諸藩に、「会津を討伐せよ」と迫った。

だが、東北諸藩はただ形勢を傍観するのみで一向に参戦する気配をみせない。

業を煮やした新政府は、会津と奥羽越列藩同盟の征討に踏み切った。


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