高齢の患者が増えるにつれて、脳神経外科でもカテーテル治療など、比較的低侵襲に治療する方法が広く行われるようになっています。その結果、患者が高齢であったり、全身状態が悪かったりしても、「治療自体は可能」という状況に遭遇することになります。
ただ、その際、特に脳卒中や外傷などでは、「治療は可能だが、元の生活に戻れるかどうかは微妙」といったケースも無視できません。発症時点で当該部位に損傷が生じる脳出血や、間に合っているかどうか微妙な血栓回収療法など、「治療するかどうか」の判断に悩むことがあります。
「治療するかどうか」=「治療適応があるかどうか」ということですが、およその目安としては、脳卒中ガイドラインのようなものもあります。しかし、実際の臨床では、ガイドラインのもとになっている研究の対象患者のように、条件のそろった患者ばかりではありません。むしろ、治療適応に悩むのは、そうした研究の境界からは外れている患者であることのほうが多いでしょう。
その治療適応が微妙なケースを、特に若い先生がカンファレンスで説明する際に、「患者(もしくは家族)が希望したので手術を行いました」とプレゼンテーションをすることがあります。正直、私は、このセリフが嫌いです。
カンファレンスの限られた時間を有効に使うため、情報を取捨選択・加工しているのかもしれません。しかし、外科医、あるいは医師にとって重要なのは、治療によってどの程度の改善が期待できるのか、治療しなければどうなるのか、このタイミングで介入した場合、患者はどのような経過・生活をたどるのか、治療自体のリスクをどう考えるのか、ということです。こうした見通しを、自分の中で明確に持っていたのかどうか。そこが、最も重要なのではないでしょうか。
目の前の患者がどれくらい良くなるかの判断には、経験が必要です。特に、都会の急性期病院しか経験していないと、麻痺や高次脳機能障害があって転院していった人が、その後どうなっているか知らない医師も多いというのが実情だと思います。ガイドラインのもとになっている研究では、たとえば「3カ月後の予後良好群」といったエンドポイントで評価されます。その「予後良好群」に入らなかった患者がどうなっているのか。あるいは、予後良好群でも、3カ月を過ぎ、半年、1年経ってどうなっているのか。地域の病院で、自分が手術した患者が、半年〜数年の間にどうなっているかを実際に拝見できたことは、自分の考え方に大きな影響を与えていると思います。
もちろん、患者や家族の希望を尊重することは重要です。しかし、医師として治療の妥当性を判断する責任があることは別の話です。医師としての判断を、患者側の希望で置き換えているのならば、プロフェッショナルとしての責任を十分に果たしているとは言いがたいのではないでしょうか。「患者の希望で治療しました」というのは、そういう責任を放棄しているセリフのように思えるのです。
医師は患者から注文されたものを、そのまま提供する仕事ではありません。求められた治療をそのまま提供するのではなく、本当に必要なものを見きわめ、説明し、提案する。場合によっては、患者の希望とは反対の選択肢を選ぶという重圧も引き受けることが求められると思います。
治療適応というのは、治療できるかどうかだけではなく、「治療した場合と、しなかった場合の未来を比較して、より良いほうを選ぶこと」です。前述した手術のプレゼンテーションの話で言えば、極論かもしれませんが、「患者の意志をふまえた上で、自分がこの治療を行うべきだと判断して説明して、結果、こうなりました」のほうが、筋が通ると考えます。
パターナリズムという批判があるかもしれません。しかし、患者の自己決定権を尊重することと、医師が自分で判断しないことは違います。自分が学んできたこと、自分の技術、これまでの経験や価値観を総動員してくだした判断であれば、たとえ結果が思わしくなくても、そこから学び、次につながるはずです。
自分が学んできた知識と技術、これまでの経験を総動員して、その患者にとって何が最も適切なのかを考え、必要であれば「治療しない」という選択肢も含めて提案する。その判断を引き受けることこそ、医師という専門職の仕事のはずです。
木村俊運(日本赤十字社医療センター第一脳神経外科副部長)[医師の判断][専門職][治療適応]