青森県の旧平舘村を訪れたときのことである。平成の大合併前までの統計では、自殺で亡くなる人の少ない地域として紹介されたことがある。路線バスに乗ったとき、どうも自転車並みのゆっくりとした速度で走るので、運転手に理由を尋ねてみた。
「乗る人がいないか見ています」
どうやら、路線バスではあるけれど、どこで手を挙げても乗ることができるらしい。なるほど、この地域では、バスは車に乗ることができない人のためのもので、その人がバス停に時間通りに行くのは大変なことなのだと知った。
ところが、同じ運転手が「この先は、バス停しか停まれません」と言った。続けて、「こっちの長は頭が固いんだ」と教えてくれた。実際に固いかどうかは別として、法律を調べてみると、路線バスがバス停以外に停まることは原則として難しく、いくつかの条件を満たさなければならない。そう読むと、逆に、旧平舘村の長のほうが柔軟なのかもしれない、と私は思った。
このとき、なんとなく、人が人のままでいることはできるのか、人がモノのようになってしまうのか、その境界線の存在を感じた。
人がモノのように扱われることは危険な兆候である。かつてヒトラーがそうした。人がモノになったとき、虐殺や戦争、差別行為は簡単に起きてしまう。その視座から旧平舘村を眺めてみると、かつての長のリーダー像が見えてくる。村民の尊敬を集めたその長は、人を中心に据え、人をモノ化しなかったのではないか。
ふと、医療はどうだろうかと思う。患者を人として見ているのか、モノとして見ているのか。モノ化は客体化とも言える。人は主観的な存在で、話したいことはコロコロ変わる。それを合理的に、最小時間で結論を出す仕事。しかし、それは医者のせいなのか? 診療報酬の制度が人をモノ化しているのではないか? 地域によってはどうか? 構造が人をモノに変えてしまうのか?
そんなことをぐるぐる考えながら、私は福島駅にいた。飯坂電車の改札の外で、駅員が「まだ乗る人はいますか〜」と声をかけていた。高齢の方が乗ることがわかると、今度は車掌に向かって「まだ乗る人がいます〜」と大きな声で伝えていた。新宿駅では、あれは、そうか、互いに相手を人として見ることができない構造なのかもしれない。
飯坂温泉の地元の方が、「何しにいらしたんで?」と聞いてくる。
「人がモノになる境界線を知りたいと思いまして」「ほう、そうですか。深いですね」「どこだと思います?」「私は、埼玉県に行くときは襟を正します」「宇都宮は?」「正さないですね。ところで仙台はどうでした?」
私はあいまいに濁すと、「仙台は勤めで住んでいたことがありました。仙台でも襟は正さないですね」などという、特に正解のない会話を楽しんだ。四万十川周辺にあったコンビニは、商店のような風情で、客と店員が楽しそうに会話していた。さて。
森川すいめい(NPO法人TENOHASI理事)[境界線][客体化]