検索

×
絞り込み:
124
カテゴリー
診療科
コーナー
解説文、目次
著者名
シリーズ

【識者の眼】「保険証が消えた夏、救急の窓口で」薬師寺泰匡

登録日: 2026.08.17 最終更新日: 2026.08.17

薬師寺泰匡 (薬師寺慈恵病院院長)

お気に入りに登録する

2026年8月1日から、従来の健康保険証は原則として使えなくなった。マイナ保険証か、その代わりの資格確認書を窓口に提示しなければ、保険診療が受けられない。持参していなければ、初診ではいったん医療費の全額支払いを求められることもある。制度としては数年前から予告されてきた移行である。だが、猛暑のこの時期、救急外来には、その「予告」が十分に届いていない人たちが、次々と運ばれてくる。

救急の現場では、そもそも本人が健康保険証やマイナ保険証を提示できないことはめずらしくない。熱中症で意識が朦朧とした高齢者、路上で倒れ、所持品も確認できないまま搬送されてきた人。財布もカードも家に置いたままというのは、むしろ当たり前である。ここで「本人確認ができないので診られません」は、ありえない。救急に応召義務がある以上、我々はまず診る。書類はあと。順番が逆になることを承知の上で、受け止めている。

これまでも健康保険証を持たない患者を診てこなかったわけではない。ただ、8月からは「持っていないこと」の意味が少し変わる。従来なら後日、有効な健康保険証を提示してもらえばすんだものが、今後は資格確認書の有無や資格情報確認の手続きが加わり、事務の道筋が1つ増える。患者には見えにくい変化だが、窓口には確実に仕事が1つ増える。

もちろん、制度には救済の仕組みも用意されている。窓口でマイナ保険証や資格確認書を提示できなくても、一定の方法で資格確認ができれば通常の自己負担ですむし、やむをえず全額を支払った場合でも、後日、保険者への手続きにより払い戻しを受けられる。さらに、マイナンバーカードを活用した「マイナ救急」では、意識のない患者でも救急隊が既往歴や処方薬の情報を確認でき、診療を支える重要な手段となりうる。

仕組みは、確かにある。問題は、その仕組みを誰が現場で回すのか、である。意識のない患者の身元を照会し、家族へ連絡し、必要な書類を案内し、後日の払い戻し手続きを説明する。その一つひとつが、ただでさえ人手の足りない夜間の受付や医事課の肩にのしかかる。効率化をめざしたデジタル化も、移行期という谷間では、かえって手間を増やす。そして、その谷間に落ちやすいのは、マイナンバーカードの手続きに縁遠い高齢者や、制度変更を知らないまま倒れた人たちであろう。最も助けが必要な人ほど、取り残されやすい。

デジタル化そのものを否定したいのではない。理想は理想として正しい。ただ、その理想が現場に着地するまでの数カ月を、誰かが汗をかいて埋めている。保険証が消えたこの夏、救急の窓口は、いつもより少しだけ忙しくなりそうである。

薬師寺泰匡(薬師寺慈恵病院院長)[救急][マイナ保険証][資格確認書

ご意見・ご感想はこちらより


1