日本の国民皆保険制度は、戦後日本が築き上げた最も成功した社会制度のひとつとして、長年にわたり国際的に高く評価されてきた。居住地や所得にかかわらず、誰もが必要な医療にアクセスできる仕組みは、世界最高水準の平均寿命や低い乳児死亡率を実現し、日本社会の安定を支えてきた。
しかし、21世紀に入り、その持続可能性には深刻な陰りが見え始めている。象徴的なのが病院経営の悪化である。中央社会保険医療協議会の「第25回医療経済実態調査」では、一般病院の約7割が赤字となるなど、厳しい経営状況が明らかになった。これは単なる経営問題ではない。日本の医療提供体制そのものが構造的な限界に近づいていることを示している。赤字が常態化すれば、設備投資は停滞し、医療従事者の待遇改善も進まない。その結果、有能な人材が自由診療や海外市場へ流出し、公的医療保険制度を支える基盤そのものが空洞化しかねない。
これまで政府は、診療報酬改定や補助金の投入、病院機能の分化などで対応してきた。しかし、それらは基本的に「限られた資源をどう再分配するか」という発想に立脚しており、医療が生み出す価値そのものを拡大する視点は十分とは言えなかった。人口減少と高齢化が進む日本では、従来型の再分配モデルだけでは制度を維持することは難しい。
重要なのは、日本の医療危機は「理念の失敗」ではなく、「設計の失敗」だ、という点である。日本には依然として、高度な医療技術、医療への公平なアクセス、長寿社会への知見、さらには東洋医学を含む独自の健康観、という強みがある。問題は、それらを十分に活かせる制度設計になっていないことだ。そして、制度設計は変えることができる。
『Abundance』では、筆者らは現代社会の問題は価値観そのものではなく、「善い価値観を悪い結果に変えてしまう制度設計」にあると論じている。20世紀型福祉国家が重視したのは、「限られた資源をどう公平に配分するか」という再分配の最適化だった。一方、次世代の政策課題は、「医療やエネルギーなどの社会的価値をいかに増やし、それを社会へ届けるか」へ移りつつある。
この視点は、日本の医療政策にとってきわめて重要である。赤字病院への補助金投入という対症療法にとどまらず、医療が生み出す価値の総量そのものを増やす方向へ転換しなければならない。すなわち、「再分配の最適化」から、「医療を成長産業として育てる発想」への転換である。
その鍵となるのが、「産業化」「国際化」「ウェルネスシフト」という3つの戦略軸だ。医療を成長産業として位置づけ、海外市場や医療インバウンドを通じて新たな需要を取り込み、さらに治療中心から予防・ウェルネス重視へ社会全体を転換する。これらは個別政策ではなく、財源、人材、技術革新を循環させる新たなエコシステムの構築を意味する。
いま日本の医療に必要なのは、「誰にどう分配するか」だけではない。「どう価値を生み出し、それを広く社会へ届けるか」という問いへの転換である。その再設計こそが、次世代の国民皆保険制度を支える鍵となる。
渋谷健司(一般社団法人Medical Excellence JAPAN理事長)[国民皆保険制度][医療危機][医療提供体制]