検索

×
絞り込み:
124
カテゴリー
診療科
コーナー
解説文、目次
著者名
シリーズ

【識者の眼】「私は意思決定をしているのだろうか」小野俊介

登録日: 2026.07.27 最終更新日: 2026.07.27

小野俊介 (東京大学大学院薬学系研究科医薬品評価科学准教授)

お気に入りに登録する

「意思決定論」は、合理的な決定のための方策を提案する学問である。医療への適用範囲も広い。しかし、私自身の日々の振る舞いは、この学問が想定する合理性とは相当に乖離しており、いつも情けなく思っている。

私のいい加減な判断が、完備性・推移性といった古典的な意思決定論の当然の要求を満たしていないことは明らかである。さらに深刻なのは、私がまともな効用や好みをそもそも持っているのか、「確率」という日本語の意味を本当に理解しているのか、そのあたりが実はかなり怪しいこと。

正直に告白すると、私は自分の欲しいもの(こと)がわからないのである。ラーメンを食べながら、ラーメンを食べたいのかどうかがわからない。欲しいものがわからない人間に物事の比較ができるはずがなく、つまりは、自分がまともな効用関数を持っているとは到底思えない。

コロナ禍に近医を受診した際、私が欲していたものが診断・治療だったのか、受診歴というアリバイだったのか、それとも別の何か(例:流行に乗ること)だったかは、当時も今もさっぱりわからない。健康でありたいとは思う。が、上記の私の行動を「効用・健康の最大化」でモデル化するのは無理な気がする。これは、不確実性や社会(他人)の効用を考慮する以前の問題だ。

意思決定論には、当然ながら決定者(個人・集団)が存在する。が、私に起きていることに決定者が存在しているのか、私にはわからない(自由論の議論を持ち込むのは反則かもしれぬが)。先日の薬不足の際、鎮咳薬の調剤を何軒もの薬局で断られ、都内を何時間も彷徨ったときには、「一体誰がこの状況の決定者なのだ?」と自身に問い続けたっけ。

自分がなぜそれをするのかがわからないのだから、他人についてはもっとわからない。たとえば、PMDAの審査報告書にある「本薬のリスクは許容可能であると判断した」という定型句を読んでも、誰が、何を、どのように判断したのかが、さっぱりわからない。何かを一方的に宣言していることだけはわかるのだけど。

こんな体たらくだから、「患者に正しい情報を与えて、正しい意思決定をしてもらうべき」といった医学専門家の正論を語る資格は、私にはまったくない。

近年の意思決定論・行動経済学が、いわゆる「限定合理性」をふまえたものへ進化していることは、読者もご存知であろう。が、「限定」であれ、意思決定に合理性が仮定されることに変わりはない。「血圧を診てくれるのがアン・サリー先生だったらよいのになぁ……」などと妄想する私のような患者に、その限定合理性とやらは、はたして仮定しうるのだろうか。

意思決定論で用いるややこしい概念(時間選好、SVO、ニューメラシーなど)をいかに駆使しようとも、私の「非」合理性は測れるはずがない。そんな虚しい自信だけは、ある。

注 やさしい歌声のシンガーソングライター、医師

小野俊介(東京大学大学院薬学系研究科医薬品評価科学准教授)[意思決定論][合理性限定合理性][非合理性

ご意見・ご感想はこちらより


1