近年、グローバルヘルスの領域で「健康の社会的決定要因(social determinants of health:SDH)」という概念が改めて注目されている。SDHとは、人々が生まれ、育ち、学び、働き、暮らし、老いる環境や、その人が利用できる資源や機会が健康に与える影響を指す。所得、教育、就労状況、居住環境、地域コミュニティとのつながりなどが代表的な要素である。WHOは2008年の「健康の社会的決定要因委員会」報告書でこの概念を体系化し、2025年5月には初の「健康の社会的決定要因の公平性に関する世界報告書」を公表した。報告書は、遺伝的要因や医療へのアクセス以上に生活条件が健康を左右すること、そして多くの国で、国内の健康格差がむしろ拡大していることを指摘している。
たとえば、糖尿病患者が食事療法を実践できない理由は、「自己管理能力の不足」だけではないかもしれない。経済的困窮によって安価な高カロリー食品に依存せざるをえない状況や、不規則な勤務形態によって食事時間が安定しない状況が背景にあるかもしれない。運動についても、近隣に体育館や公園など安全に体を動かすことができる場所があるかどうかで習慣は変わりうる。また、酷暑や酷寒、積雪といった気候条件のために運動量が落ちざるをえない人もいる。これらはいずれも本人の意志だけで変えられるものではなく、暮らしの条件に根ざしている。
そして、こうした条件は医療制度の充実だけでは解消されない。日本は国民皆保険制度を有し、医療アクセスの公平性が比較的高い国とされる。しかし、それでも所得や学歴による健康状態の差、単身高齢者の増加、非正規雇用の拡大、地域間格差は、無視できない課題となっている。国民皆保険制度があってもなお健康格差が残るという事実は、医療アクセスの保障だけでは格差は埋まらないというWHOの報告書の指摘とも重なる。
臨床医の中には、「社会問題まで対応するのは難しい」と感じる方もいるだろう。確かに、医師が患者の経済状況や居住環境そのものを変えることはできない。しかし、SDHを理解することは、患者理解の幅を広げることにつながる。
治療方針を検討する際に、「なぜこの患者は受診が途切れるのか」「なぜ薬を飲めないのか」と考え、その背景にある生活状況を尋ねてみる。診察時間の制約がある中でも、「お仕事はどうされていますか」「生活で困っていることはありませんか」といった一言が、重要な情報を引き出すことがある。経済的な理由で受診継続が困難な患者にはソーシャルワーカーとの連携が、独居高齢者には地域包括支援センターや介護サービスへの橋渡しが、状況の改善につながることもある。
SDHへの対応は、医師1人で完結するものではなく、多職種連携の出発点としてとらえるべきだろう。看護師、薬剤師、医療ソーシャルワーカー、ケアマネジャー、行政職員などの専門性を組み合わせることで、患者が抱える社会的課題への支援が可能になる。
疾病はしばしば社会の中で生じ、社会の中で悪化し、社会の中で回復する。検査値や画像所見だけでは見えない患者の生活背景に目を向けることは、決して医療の本質から外れることではない。むしろ、患者中心の医療を実践する上で不可欠な姿勢と言えるだろう。
WHOが描く世界の健康格差も、外来で出会う「なぜこの患者はうまくいかないのか」という困りごとも、生活条件が健康を左右するという同じ仕組みから生じている。前者はそれを集団の統計として、後者は目の前の1人の患者として見ているにすぎない。患者の生活を理解するためのレンズとしてSDHの視点を持つことは、これからの医療に関わる私たちすべてに、ますます求められるのではないだろうか。
坂元晴香(聖路加国際大学公衆衛生大学院学際健康科学分野客員准教授)[健康の社会的決定要因][SDH][健康格差]