頭木弘樹氏は、NHKラジオ深夜便「絶望名言」の解説を務めている。20歳のときに、全大腸型の潰瘍性大腸炎を発症し、医師から「大学院に進むことも、就職することも無理。一生親御さんに面倒を見てもらうしかない」と告げられ、その後13年間の療養生活を余儀なくされた。突然、目の前に伸びていた道が閉ざされ、進むべき道がまったく見つからなくなってしまったのである。
そのような状況の中で出会ったのが、フランツ・カフカの小説『変身』であった。非現実的どころか、むしろ恐ろしいほどリアルに感じられ、主人公グレゴール・ザムザがある朝、突然巨大な虫になってしまうという設定は、頭木氏自身の絶望と重なり合ったという。頭木氏はその体験をふまえ、「人生という物語の脚本を絶望的な出来事によって書き直さなければならないとき、それはとても困難で、新しい人生は受け入れがたく思えます。なんとか脚本を書き直してその後の人生を生きていくためには、書き直しの参考となる物語が必要です」と語っている。
また、カフカが恋人に宛てた手紙にある「(中略)ぼくには誰もいません。ここには誰もいないのです、不安のほかには。不安とぼくは互いにしがみついて、夜通し転げ回っているのです」という言葉には、孤独と不安を自ら呼び込み、そこでもがき続ける姿が率直に表現されていると、頭木氏は述べている。
私たちは皆、必ず死に向かう存在であり、その過程で病や障害を得たとき、絶望を体験する当事者になるかもしれない。あるいは、病に限らず、自分が描いてきた人生の脚本をどうしても書き直さなければならない転機に直面することもあるだろう。そうしたとき、自分の絶望に寄り添ってくれるものがあることを知っておくことは、大きな慰めになる。
さらに、苦しみを抱えた患者に寄り添うことを職務とする私たち医療従事者にとっては、その立場の弱さや苦しみに共感する力を意識して育むことが重要である。『変身』では、グレゴール・ザムザと家族の発話や内面が第三者によって描写される形で物語が展開し、結末に至るまでの家族の心情の変化も印象深い。病気や障害とともに生きる人を取り巻く家族の心理を学ぶ一助になると、私は考えている。
八谷 寛(名古屋大学大学院医学系研究科国際保健医療学・公衆衛生学分野教授)[フランツ・カフカ][変身]