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【識者の眼】「本の海を渡る」中村利仁

登録日: 2026.03.12 最終更新日: 2026.03.12

中村利仁 (社会医療法人慈恵会聖ヶ丘病院内科)

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平安時代の貴族階級の間で『白氏文集』を読んでいることは教養の一部であり、コミュニティに属していることの証明でもありました。彼らを相手に書かれた仮名文学が、男女を問わず読者にその知識を暗黙のうちに求めるのは当然でもあったのでしょう。

時代がくだって20世紀後半、およそ本と名のつくものを生きている間にすべて読みきることなど、もはや不可能になりました。読者の知識や背景によって、物語から読み取られる内容が異なるのも当然のことでした。

この頃、別の流れとして、圧倒的な情報量をディテールにこだわって読者に提供する小説群が一世を風靡します。音楽や美食からファッション、スポーツ、バイクや車、飲食店やリゾート地まで、読者は情報の奔流にさらされる経験をすることになりました。既に知っている人たちにはもちろん、知らなかった人たちにも歓迎され、流行となりました。今は忘れ去られた物語もあれば、新たな古典となった小説もありますが、読んでいるか否かが新たな棲みわけをもたらしています。

1961年以来続いてきた国民皆保険制度は、高額療養費制度改正を突破口として廃止へ向かっていると指摘する議論もあります。天引きされる保険料の負担の重さを強調することで広く支持を得た政策ですが、国民皆保険制度の廃止によって国民負担が軽減されるという主張は、統計上のトリックにすぎません。世界の先進国で国民負担率が最も低いのは米国ですが、同国には国民皆保険制度はなく、乱立する民間医療保険会社によって市場は細かく分断され、単一価格とはほど遠い状況が続いています。つまり、広く宣伝される「負担軽減」は、費用のつけ替えによる見かけの問題にすぎないのです。

経営者も労働組合も、今後の負担が長期的には米国並みに倍増する可能性に備える必要があります。この議論は1980年代以降、繰り返し課題として挙がってきました。私が研究者に転じた今世紀初めにも検討されましたが、このときは企業負担の増額を嫌った経営者団体が最終段階で脱落し、実現が妨げられました。この20年間で日本の経営者の視野は極端に狭くなったと言わざるをえません。

ホセ・オルテガ・イ・ガセットが、科学者を含む専門家の独善を「近代の野蛮人」と批判したのは戦間期のことです。本来、高額療養費制度改正の影響を最も強く受ける患者の治療に従事する大学病院の医師たちは、今回、この問題をそういう視点から語ることがほとんどありませんでした。知識の限界だったのでしょう。

人類文明そのものが、すべてを知り尽くすだけの時間を持ちうるかどうかすら定かではありません。専門家の限界を論難するだけでは足りないのです。患者にとって誠実な代理人であるためには、いまは一握りにとどまる、過剰な情報量と闘うための工夫を広める必要があるでしょう。

“Bliss Wagoner is dead.” They Shall Have Stars by James Blish(1956)

中村利仁(社会医療法人慈恵会聖ヶ丘病院内科)[情報過多][国民皆保険

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