猛暑の夏、救急外来に運び込まれる熱中症患者の数は年々増えている。かつて西日本に限られていたデングウイルス媒介蚊の分布は関東にまで北上し、喘息や循環器疾患の増悪に大気汚染の関与を疑う場面もめずらしくなくなった。こうした変化の背景にあるのが気候変動である。国際研究プロジェクトであるLancet Countdownの2024年報告書は、65歳以上の熱関連死亡率が1990年代と比べて167%増加したと伝えている。臨床現場における冒頭のような肌感覚は、いまやデータによっても裏づけられつつある。
こうした危機を背景に急速に台頭してきた概念が「プラネタリーヘルス」である。2015年にRockefeller Foundation-Lancet Commissionはこれを「人類の文明の健康と、それが依存する自然システムの状態」と定義した。地球システムの安定性こそが人間の健康の前提条件であるという認識に立つ考え方である。従来のグローバルヘルスが「人間の健康」を中心に据えてきたのに対し、その健康を支える地球環境そのものの維持を包括的にとらえた、より根源的な問いと言える。気候変動、生物多様性の喪失、化学物質汚染など、人類が安全に活動できる地球環境の限界を示す「プラネタリーバウンダリー」は9領域のうち6領域が既に危険域に達しているとされ、この問いの緊急性は増すばかりである。
なぜ医療者にとってプラネタリーヘルスが重要なのか。それは、医療の「需要」と「供給」の双方を構造的に揺さぶっているからだ。需要側では、前述の熱中症やベクター媒介性感染症に加え、気候変動に起因する食料不安や栄養障害、さらにはメンタルヘルスの課題まで、臨床のあらゆる領域に影響は及ぶ。個々の疾患への対処だけでは、気候変動が生み出す健康リスクの全体像は見えてこない。疾患の背後にある地球環境の変化そのものに目を向けること、それがプラネタリーヘルスの視座である。
一方、供給側には、多くの医療者にとって意外な事実がある。保健医療セクターは世界の温室効果ガス排出量の約4.4%を占めると推計される。高所得国では最大10%との報告もある。我々が患者を治療する行為そのものが気候変動を加速させ、将来の患者を増やしているという逆説的な構造が存在するのだ。こうした認識は既に具体的な行動につながっている。たとえば英国の国民保健サービスであるNational Health Serviceは、医療活動に伴うCO2排出量を2040年までに実質ゼロにするという目標を掲げた。麻酔ガスの見直し、医療廃棄物の削減、病院の省エネルギー化など、臨床現場レベルでの取り組みが進んでいる。
翻って日本はどうか。国民皆保険のもとで世界屈指の医療アクセスを実現してきた一方、医療と環境の関係が正面から議論される機会は多くなかった。気候変動対策は環境省の仕事であり、医療者の守備範囲ではないという感覚は自然である。しかし、患者の疾患構造が気候によって変わりつつあり、医療行為そのものが環境負荷を生んでいるとすれば、その線引きはいつまで有効だろうか。日本でも、「治療しながら環境を壊している」という矛盾にどう向き合うかが、いずれ問われるようになるだろう。医学教育のカリキュラムに気候と健康の関連を位置づけること、病院のエネルギー消費や廃棄物を見直すこと、処方や検査のあり方に環境への配慮を加えること。一見すると臨床から遠いようで、実はすべて日々の診療とつながっている。プラネタリーヘルスは、医療の世界に新たな問いを投げかけている。
坂元晴香(聖路加国際大学公衆衛生大学院学際健康科学分野客員准教授)[プラネタリーヘルス][気候変動]