検索

×
絞り込み:
124
カテゴリー
診療科
コーナー
解説文、目次
著者名
シリーズ

【識者の眼】「薔薇の名前」中村利仁

登録日: 2026.02.16 最終更新日: 2026.03.31

中村利仁 (社会医療法人慈恵会聖ヶ丘病院内科)

お気に入りに登録する

長い受験生時代に読んだ参考書のひとつに、高田瑞穂の『新釈 現代文』(筑摩書房)があります。同時代にお読みになった諸兄はご承知のように、この本は一冊を通してずっと「たった一つのこと」、すなわち筆者の展開する論旨を文章から読み取るという営みを教え続けるものでした。

ところが大学に入ってみると、読書界はまったく別の世界になっていました。乱暴に言えば、本から何を読み取るかは読者次第であり、読書経験や文化背景が異なれば、異なる読み方が生まれるのは当然だ、という考え方が支配的だったのです。

もっとも、こうした読書観には長い前史があります。日本の和歌の世界には本歌取りという技法があり、また、読者が唐詩の知識を持っていることを前提として、『源氏物語』や『枕草子』(たとえば、第二八〇段の「香炉峰の雪」のお話)が書かれてきました。

1980年に原著が刊行され、1986年にはショーン・コネリー主演で映画化され、1990年に日本語訳が出版され、さらに近年「完全版」が訳出されたウンベルト・エーコの『薔薇の名前』もまた、その好例です。本作はミステリィとしてそのまま楽しめる一方で、14世紀キリスト教世界における様々な論争や、ヨーロッパで読み継がれてきた文学作品の知識があれば、より深く味わえる仕掛けが随所に施されています。

世の中の様々な現象は、人によって見え方が大きく異なります。それは価値観の違いというよりも、置かれた立場の違いによって、見えるモノ自体が変わる場合が少なくありません。

2025年から議論が続いている高額療養費制度の患者負担増は、その典型と言えるでしょう。そもそもこの問題に関心を持っている人は、社会全体から見れば圧倒的少数です。若くして高額療養費制度を利用する人は多くなく、自己負担率の低い高齢者であっても同様です。

病気やケガは、いつ誰を襲うかわからない一方で、発生頻度は比較的低くても、ひとたび起こればダメージの大きいリスクです。これを社会全体で支え合おうとするのが医療保険制度です。しかし、現在は元気で病気やケガを身近に感じていない若い世代にとって、自分や家族が患者になるという事態は想像しにくいです。そうなると、毎月の給与明細で社会保険料の天引き額が、わずかでも減るほうがうれしいと感じるのは自然でしょう。少なくとも、政策立案者はそのように考えています。

さらに、健康保険組合などの被保険者は、付加給付によって高額療養費の引き上げの影響を直接受けない場合があります。そのため、見え方以前に、直面している現象そのものが異なっており、議論に参加する理由を持たないのです。

社会保障制度に対する批判は、近年きわめて強まっています。しかし、歴史的文脈をふまえれば、国民全体を対象とする強制的な社会保険制度は、帝国主義国家ドイツの鉄血宰相ビスマルクが、社会主義勢力との激しい対立と弾圧の中で、いわばアメとムチの「アメ」として導入したものです。これを放棄すれば、何が起こるのかは明らかです。

「諸君は『我々の目標は何か?』と問うだろう。私は一言で答えられる、『勝利だ』と」ウィンストン・チャーチル(1940年5月13日)

中村利仁(社会医療法人慈恵会聖ヶ丘病院内科)[社会保障制度[高額療養費制度]

ご意見・ご感想はこちらより


1