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歴史に学び、現在を真摯に生き、将来への責任を担う─長谷川有史氏インタビュー[OPINION :福島リポート(特別編)]

No.4800 (2016年04月23日発行) P.14

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-01-26

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  • 2011年10月22日号からスタートした連載「福島リポート」では、福島の医療の現状と課題を福島で暮らす医師たちが報告してきた。初回に登場以降、すべての執筆者への依頼の労をとっていただいているのが長谷川有史氏だ。原発事故直後は福島県立医大被ばく医療班リーダーを務め、14年10月から日本で初めて創設された「放射線災害医療学講座」の主任教授を務める長谷川氏に、この5年間と今後を聞いた(インタビューは3月31日に実施)。

    ─2011年3月11日の東日本大震災発生時、先生は救急医でした。放射線災害医療に関わる経緯を教えて下さい。

    本当に偶然です。東日本大震災発生時は救急科の中で役割分担をしていました。行政との調整、全国から来る災害派遣医療チーム(DMAT)の受援対応、そして僕は救急外来のリーダー。ただ、今の僕の立場で言うのははばかれますが、福島医大は被ばく医療機関に指定されていたものの、原発内で発生した患者を診る準備ができていませんでした。

    ところが、3月14日の水素爆発で患者が発生したという情報が入ってきた。県庁とやり取りしている先生から「頸椎損傷が疑われ遠くに運べないから福島医大で診る」と。僕が「放射性物質が付いていても普通に診ていいんですか」と聞いたら、「それは分からない」と言われて(笑)。今だから笑えますが、当時は疲れ果てて愚痴を言う気力もなかったですね。本棚から10年前に研修で使用した放射線災害医療のテキストをひっぱりだして読みました。それが僕と放射線災害医療の最初の出会いです。

    ─先生は連載の中で原発事故の問題を「自分事」と捉える必要性を強調されています。先生はいつ、「自分事」になったのでしょうか。

    15日朝にも3人、原発内で発生した患者を診て、先が見えずに不安になっていた時に、DMATが福島から一時撤退することになり、取り残された気持ちになっていたら、広島大と長崎大の合同緊急被ばく医療支援チーム(REMAT)が来て、「原子炉の大損壊事故発生も否定できない。それが現実となれば福島医大に多数の患者が搬送され、我々だけでは対応できないので、実際に患者を診るのは皆さんです」と言われ、泣きたくなりました。オーバーですが癌の告知を受けたような心境です。「他人事」だったのが、これを境に「自分事」とならざるをえなかった。そして18日に山下俊一先生(長崎大副学長、福島医大副学長)が大学職員を集めて話をしてくださった。実はこの時、山下先生が何を話されたのか覚えていないのですが、「もう関わるしかない」と肝を据えたことは覚えています。

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