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【識者の眼】「人生における『選択のパラドックス』(後半)」小豆畑丈夫

No.5209 (2024年02月24日発行) P.65

小豆畑丈夫 (青燈会小豆畑病院理事長・病院長)

登録日: 2024-02-13

最終更新日: 2024-02-13

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前欄では、人間の「生(死)の選択のパラドックス」について、今、私が考えていることを述べた。選択を迫られた患者さんや家族を医療者はどのように支えればよいのか?

私たち医療者は、患者さんが治療困難な病気にかかったとき、積極的な治療を受けるか・緩和治療を選択するかどうかの判断をするためのアドバイスをしなくてはいけない。患者さんが人生の終末期に達したときに、人工呼吸器をつけるかどうか悩んでいる家族に、どちらかを薦めなくてはいけない。

この時、前欄で書いた「AとBの選択肢があり、それぞれこんな利点と欠点があります。それを決めるのはあなたです」という提案では、患者さんやその家族は「選択のパラドックス」に陥るだけだ。では、医療者はどうすればよいのか?

専門家として自信を持ってこちらがよいと思える選択肢があれば、私はその方法を必ず薦める。当たり前のようだが臨床現場では時に難しいことである。患者さんだってその選択をしたくても、経済的な事情や、自分が闘病することで家族に迷惑をかけるのではないか、などの心配からそれを希望できないことがある。また、その気持ちを言葉にできない人のほうが多い。私は、医療者は患者さんや家族の言葉をそのまま鵜呑みにしてはいけないと自分に言い聞かせている。患者さんの言葉に隠れている“本当の願い”を粘り強く探り当てて、話し合いのテーブルに載せる役割が医療者にはあると思う。

では、医者でも“患者さんのためにどちらがいいかわからないとき”にはどうすればいいのか? たとえば治る可能性が高くない疾患に対して患者さんに身体的・精神的負担の大きい治療を行うか? といった問題である。私もずっと悩み続けている。そもそも、私にそんなことを判断する能力があるのかという根源的な不安が自分を苦しめる。それでも、最近、こんな風に言えるようになった。

こういう治療の選択肢があり、どちらの選択をされても私は医者として全力を尽くします。ただ、本当はどちらがよいのか私にもわからないのです。自分がそうなったら理性的に判断できる自信が今の私にもありません。でも、もし自分の親がこの病態であったなら、こちらの選択をすると思います。それは、私は私の親のことをよく知っているからです。親に対する理解と、現在の医療の限界を掛け合わせると、こちらの選択がいいかな?と思うからです。そんな風に一緒に考えてみませんか?

小豆畑丈夫(青燈会小豆畑病院理事長・病院長)[医療と制度⑨]

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