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【識者の眼】「児玉宏先輩を偲んで」邉見公雄

No.5165 (2023年04月22日発行) P.63

邉見公雄 (全国公私病院連盟会長)

登録日: 2023-04-04

最終更新日: 2023-04-04

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私が最も畏怖し尊敬していた京大外科とボート部の先輩で乳腺外科の泰斗、パイオニアの児玉宏先生が昨年12月12日に亡くなられたことをクリスマス前後の京都新聞で知った。体調がすぐれないとは周囲から仄聞していたが、ここ5〜6年は賀状の遣り取りもなかった。日本で初の乳腺外科を標榜した開業医でKODAMA法という乳癌縮小手術の考案者、5000例以上の乳癌手術の大家であった。

先生の卒業は私より6年上の1962(昭和37)年で、付き合いが濃厚になったのは京大第二外科の研究室時代からである。当時は日笠頼則教授の助教授として戸部隆吉先生が帰学され、癌免疫と消化管ホルモンの2つの分野を担任。前者のリーダーに児玉先輩。ところがある日、「こんな大学には愛想が尽きた。開業する」と言い出した。片腕を失う戸部先生は猛反対。しかし先輩は止まらない。北野白梅町に児玉乳腺外科クリニックを開いた。当時、標榜診療科に乳腺外科は認められていなかったが、得意の弁証法で認めさせたと私は固く信じている。開業後は私も友人の奥様などを紹介させていただいたが、その内の一人が再発。先生曰く「滅多に再発はないんだが、どういう訳か親しい人からの紹介が再発するんだよ」と。

先輩の好きなものは「ベートーベンに山登り、そして祇園」とのこと。確かに、研究室時代の質素な時でもレコードやステレオに金を惜しまず、山にもよく登られていた。祇園と言えばドイツ語メニューの焼肉「安参(やっさん)」にはよく連れて行ってもらった。閉店後に人気のない円山公園で龍馬・慎太郎像や枝垂桜の下、三高寮歌や琵琶湖周航の歌を唄ったことを思い出し、若き青春時代の故人の姿が蘇った。

お別れの会の当日、弔辞のお一人霞富士雄先生が「あんなに盛業だった児玉乳腺外科を何故閉じたのか?」と遺影に。私も真相が判らず弟子筋の方に「お家騒動か? 医療事故か?」と不躾に聞くと「時代です。手術はほんの一部に。化学療法や放射線、ゲノムなどで集学的な施設でないと」と。腑に落ちた。

最後に、もう時効と思い互いに泥酔状態の時に先輩から聞いた2つの話を紹介する。1つ目は「大学に戻ったことを学園闘争の仲間達はずっと“裏切り者”と思っているだろうな」と寂し気に。2つ目は「私が乳癌を専門に選んだのは、研究者はほぼ自分の専門の病気で死ぬ。男だから乳癌は確率が低いだろう」だった。無事老衰とのこと。改めて快男児児玉宏先生の御冥福をお祈りしたい、とこの稿をお借りした。少しの公私混同をお詫びする。

邉見公雄(全国公私病院連盟会長)[追悼]

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