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【識者の眼】「起きうることと、起きていること」岩田健太郎

No.5033 (2020年10月10日発行) P.56

岩田健太郎 (神戸大学医学研究科感染治療学分野教授)

登録日: 2020-09-29

最終更新日: 2020-09-29

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大腸菌の菌血症患者がいて、研修医に「感染性心内膜炎はないでしょうか」と問われたことがある。「おそらくない」と答えると、鬼の首を取ったように「岩田先生、大腸菌が心内膜炎を起こしたっていう症例報告があるんですよ」と、彼は検索してきた論文を手に取ったのだった。

もちろん、大腸菌は感染性心内膜炎を起こしうる。しかし、それは極めて稀有な現象で「めったに起きない」。めったに起きないからこそ、ケースレポートになるのであり、それがよくある出来事ならばパブリッシュする価値はないのである。ケースレポートが「ある」のは、それが「めったにない」逆説的な証左なのだ。

飛行機は墜落するか。もちろん、する。しかし、めったにしない。飛行機が墜落する可能性がある、という事実は、我々が常に空を見上げて落ちてくる飛行機を心配しなければならない、なんて話を誘導しない。2001年9月11日にマンハッタン(米国ニューヨーク州)に住んでいた僕は、続発した旅客機ハイジャックと墜落の後、上空を飛んでいる飛行機が落ちてこないかビクビクもので見守る毎日が続いたのだった。

閑話休題、エアロゾルをよく問われる。エアロゾルは、発生しうる。しかし、めったに発生しない。それが日常的にしょっちゅう発生しているのであれば新型コロナウイルス感染症はもっと激烈に広がるだろうし、現在行われているコンベンショナルな感染対策のほとんどは破綻しているだろう。実際にはソーシャルディスタンスで感染の伝播はあっというまに激減する。新型コロナウイルスは、案外、伝播しにくいウイルスなのである。日本の伝統的なクラスター対策がたいてい上手くいっているのもそのためだ。

一般的に基礎医学の研究やシミュレーションは「起こりうること」を吟味する。しかし「起こりうること」と「起きていること」は同義ではない。起こりうることには当然マインドフルにはなろう。しかし、だからといって稀有な事象にビクビクし、空を仰ぎ見て飛行機の落下を心配するのは、健全な態度ではない。

Yes、Noのダイコトマスな命題はレベルの低い命題だと研修医には教えている。「なんとか病の可能性は否定できない」と言ってはいけない、とも教えている。よりレベルの高い命題は「どのくらいの頻度で、それは起きるか」なのである。頻度は、ベイズの定理でいうところの「事前確率」だ。結局の所、頻度を扱わずしてEBMなどは実践できないのだ。

岩田健太郎(神戸大学医学研究科感染治療学分野教授)[EBM]

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