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島崎藤村の『夜明け前』[エッセイ]

No.5159 (2023年03月11日発行) P.66

高橋正雄 (筑波大学名誉教授)

登録日: 2023-03-12

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昭和10(1935)年に完成した島崎藤村の『夜明け前』(新潮社刊)には、主人公の青山半蔵が起こした東京・神田橋での献扇事件と、故郷・馬籠での万福寺放火事件という、2つの不可解な事件が描かれている。半蔵は結局、万福寺放火事件によって座敷牢へ閉じ込められ、その2カ月後に亡くなるのだが、世間では「狂気の沙汰」と噂されたこの2つの事件を、藤村はあくまでも心理的に了解可能な事件として描こうとしている。

1. 献扇事件

明治7(1874)年、新たな時代を迎えて己れの進路を開拓しようと、半蔵が上京したときのことである。11月17日、帝の行幸があると聞いた半蔵は、この国の前途を憂うる志を述べた歌を書いた扇を持って神田橋まで出かけた。

待つこと2時間、神田橋界隈は奉拝の人でいっぱいである。半蔵は、かくも大勢の人が集まるのも、「内には政府の分裂し外には諸外国に侮らるる国歩艱難の時に当って、万人を統べさせらるる帝に同情を寄せ奉るものの多い証拠であろう」と考え、いまだ22、3歳の若き帝のことを思って、涙が迫った。

30分ほどして近衛騎兵の一隊が近づいてきたとき、「彼は実に強い衝動に駆られた」。「手にした粗末な扇子でも、それを献じたいと思うほどの止むに止まれない熱い情が一時に胸にさし迫った」のである。近づいてきた第一の馬車を御先乗と思った彼は、「前後を顧みるいとまもなく群集の中から進み出て、その御馬車の中に扇子を投進した」。

そして急ぎ引き下がって額を大地につけ、袴のままひざまずいたのだが、実は半蔵が御先乗と思った馬車が帝の馬車だったこともあって、周囲の人々は「訴人だ、訴人だ」と不敬漢でも現れたかのように騒ぎ出し、半蔵はその場で巡査に拘束された。

警視庁で訊問を受けた後、入檻を命ぜられた半蔵は、翌日、医者の前に引き出された。「その医者は先ず彼の姓名、年齢、職業なぞを尋ねたが、その間には彼の精神状態を鑑定するという風で、幾度か小首を傾げ、彼の挙動に注意することを怠らなかった」。

この鑑定医は、「神田橋前まで行幸を拝しに家を出たのは朝の何時で、その日の朝飯には何を食ったか」など様々な質問をし、診断がつくと、半蔵は東京裁判所へ送られて、入檻は11月22日まで及んだ。

裁判所で「どうしてその方はそんな行為に出たか」と問われた半蔵は、「自分の思うことの十が一も答えられませんでした」と、自分でも容易に言語化しにくい思いを語っているが、藤村はそんな半蔵の心情を代弁して、次のような説明を加えている。「同門の友人等が為ることをもじっと眺めたまま、交通要路の激しい務めに一切を我慢して来た彼である。その彼の耐えに耐えた激情が一時に堰を切って、日頃慕い奉る帝が行幸の御道筋に溢れてしまった。こうすればこうなるなぞと考えて為たことではなく、又、考えて出来るような行いではもとよりない」。

藤村は、この時の半蔵の行動を、「迸り出る自分がそこにあるのみ」と、あくまでも半蔵の心情に寄り添う形でとらえているのである。

結局、この事件で半蔵は、「懲役50日のところ、過誤につき贖罪金3円75銭申付くる」と裁断されるのだが、事件を伝え聞いた馬籠の人々が「気が違った」と噂したこの献扇事件について、藤村は、鬱積した感情の暴発というあくまでも心理的に了解可能な事件として解釈しているのである。

2. 放火事件

献扇事件から12年後の明治19(1886)年、56歳になった半蔵は、「変な奴が来てこの庭の隅に隠れている」と言ったり、「嘲りの声さえ耳の底に聞きつける」など、被害妄想や幻聴を思わせる症状が顕著になり、遂には「あんな寺なぞは無用の物だ」と言って万福寺に放火する1)。だが、日頃先祖を大切にする半蔵が万福寺を焼こうとした理由が村人にはわからなかった。なぜなら、「遠い昔に禅宗に帰依した青山の先祖道斎が村民のために建立したのも万福寺であり、今日の住持松雲和尚はまたこんな山村に過ぎたほどの人で、その性質の善良なことや、人を待つのに厚いことなぞは半蔵自身ですら日頃感謝していいと言っていたくらいだからである」。

しかし、当の万福寺の松雲和尚は、半蔵の放火は「全くの狂気沙汰」とも思えぬという見方をする。実は、寺は無用の長物だと半蔵が言い出したのは最近のことではなく、維新によって上は大名から下は庄屋まで廃された頃から、半蔵は僧侶も廃されるべきだと考えていたからである。そのため松雲は、半蔵は、寺の本堂を児童教育の仮教場にした頃から廃仏ということも考えていたのではないかと、次のような推論をするのである。「半蔵は例の持前の凝り性と激情とに駆られて、教部省の遣り口に安んじられず、信教自由をも不徹底なりとして、遂にこんな結果を招いたものとしか思われない」。

ここにも、献扇事件同様、一見不可解な行動も了解不能と決めつけずにその意味するところを理解しようとする態度がうかがえる。献扇事件といい、放火事件といい、『夜明け前』には、世間的には「狂気の沙汰」として片づけられがちな行為にも了解可能性を見出そうとする傾向が顕著なのであって、半蔵の発狂自体も当時の状況からすれば当然のこととする見解が示されている。「平田鉄胤翁をはじめ、篤胤没後の門人と言わるる多くの同門の人達が為したこと考えたことも、結局大きな失敗に終ったのであった。半蔵のような純情の人が狂いもする筈ではなかろうか」。

おそらく、献扇事件や放火事件を心理的に了解可能なものとする描き方には、「お師匠さまのような清い人はめったにない─あんな人を俺は見たことがない」という狂死後も半蔵を尊崇しつづける村人の言葉とともに、狂気の人として牢死した半蔵のモデルたる父・正樹の無念を晴らし、人間として復権させたいという藤村の息子としての愛情が込められているのであって、藤村が『夜明け前』という畢生の大作を執筆した理由のひとつも、そこにあったのではないかと思われる。

その意味では、藤村も狂気や了解困難とされがちな言動の背後に精神障害者の真情を読み取ろうとする作家の一人だったことになる。本人にも説明・言語化しにくいもので、そもそも精神病理学的な現象を日常的な言語で表現しようとすること自体に限界があるのかもしれない。

【文献】

1) 高橋正雄:ノーマライゼーション. 1998;18(9):62-4.

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