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吉村 昭の『コロリ』─続・文学にみる医師像[エッセイ]

No.5148 (2022年12月24日発行) P.64

高橋正雄 (筑波大学名誉教授)

登録日: 2022-12-25

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1974(昭和49)年に吉村昭が発表した『コロリ』(『吉村昭自選作品集第9巻』、新潮社刊)の主人公・沼野玄昌は、1836(天保7)年、静岡県の生まれ、12歳の時に安房・小湊村の名主で医家の沼野家の養子となり、1855(安政2)年から9年8カ月、佐倉順天堂の佐藤舜海のもとで医学を学んだ後に小湊村で開業した医師である。

玄昌は「安房国随一の医者」と豪語し、「ただ漫然と病人の脈をとったり薬をあたえるそこらの医者とはちがう」という矜持の持ち主だった。「暇を見出しては医書を読みふけっていた」彼は、「患者に対する言葉づかいは荒かったが、治療には熱心で、深夜でも往診を請われれば、かなりはなれた地まで気軽に出向いていった」し、「手術法は粗暴とも思えるほど大胆だったが、患部を思いきってえぐりとるので治癒率はきわめて高かった」。

また、「激しい性格」で「恐れるものはなに一つないように思ったとおりのことを平然とやってのける」彼は、1865(慶応元)年に神輿事件を起こした。当時の小湊村には2つの神輿があったために、村が二分されてしばしば喧嘩騒擾が起き、経済的な負担も大きかった。そこで、神輿を1個にして出費を軽減すべきだという声も上がったが、神輿を修理する職人は仕事が減ることを恐れ、老人たちは伝統が損なわれることに反発した。

そんな混乱の中、一村一神輿を支持していた玄昌は、神輿のひとつを徹底的に壊すという行為に及んだのである。

また、1876(明治9)年には人体発掘事件を起こした。「医学のために人骨が欲しい」と考えていた玄昌は、隣家の鍛冶屋・与右衛門に言いつけて、村の墓地に埋葬された死体を持って来させ、実物を使って人骨模型をつくったのである。玄昌は、この人骨を使って西洋医学の講義を行ったが、こうした彼のやり方には反感を抱く漢方医も少なくなかった。

玄昌は、許可なく遺体を発掘したことで裁判にかけられたものの、「かれの行為が純粋に医術研究を目的にした、むしろ賞賛すべき性格のもの」と裁定されて、無罪になった。

しかし、一般の人々は、玄昌のことを「革新的な医師とはみとめながらも、非人間的な行為をおかした人物として非難した」。「神聖な神輿を容赦なくたたきこわし、墓地から掘り起した腐乱死体を骨体に仕上げて床の間に置き、さらに講習会にまで持ち出した玄昌を、鬼の化身のようにも考えたのである」。

わが国でコレラが全国的に流行したのは1858(安政5)年のことで、この年の7月末から55日間に江戸の寺々で葬ったコレラ患者の数は28万人余りに及び、房総の村でもコレラで亡くなる人が相次いだが、それから19年後の1877(明治10)年、再びコレラが流行した。

人々の動揺は激しく、小湊村にある誕生寺には身の安全を祈って参詣する人が殺到した。当時の人々には「コレラは妖怪のもたらす病いのように思えていた」のである。

千葉県庁では、患者の発生地域の医師を督励して防疫に努めたものの、「医師たちは患者からの感染をおそれて、仮病をつかったり旅に出たりして患者の発生した地域に近づこうとはしなかった」。

この辺の医師の反応は、かつてデフォーが『ペスト』に描いた医師たちの反応と同様であるが、県庁から千葉病院御傭医という資格を与えられた玄昌は、精力的に走り回った。

西洋医学を学んだ玄昌も、漢方医同様、コレラ患者をどう扱っていいかわからず、コレラは恐ろしかったが、「生来の豪胆さで患者発生地域に乗りこみ、家族たちが患者をはこぶことをきらうと、自らすすんで患者を背負ったりした」。彼は、患者を隔離した後、「井戸、溝、便所などに石灰を投げ入れて消毒し、家族をはじめその地域の住民に外出または遠出をしてはならぬと指示した」のである。

そのうち、郡内の人々の間に、妙な噂が流れはじめた。コレラの発生地を走り回っている玄昌の姿を見た人々は、一つの錯覚を抱くようになり、玄昌が足を踏み入れた地にコレラが発生すると思うようになったのである。

この噂はたちまち広まり、玄昌が井戸に投げ込んでいる石灰はコレラの毒であり、また患者が死亡すると玄昌がその肝臓を取り出して井戸に投げ入れるため、その土地にコレラが流行すると唱える者まで現れた。その背後には、神輿事件や人骨事件で広まった玄昌に対する特殊な先入観があったと思われる。

11月21日の夕方、鴨川の警察から使いの警官が玄昌の家にやってきた。鴨川の宿に泊まっている商人が発熱し、嘔吐を繰り返したので町医者に診せたところ、コレラだと言う。しかし、町医者は感染を恐れて近づくことを拒んだので、迎えに来たというのである。

宿に着いた玄昌は、宿の主人に「お前たちは、なるべくはなれた部屋に集って、決して外には出るな」と指示した後に、2階のはずれの部屋に寝ている患者を診察した。「だれも看護をする者はなく、薄い吐瀉物が畳の上に流れていた」。

玄昌は、用意してきた薬を飲ませると、下腹部にカラシを塗った布をあて、畳の上の吐瀉物を拭い取って石灰をまき、男の足と腰を荒い布で摩擦しはじめたが、それは佐倉順天堂で教えられたポンペ流の治療法だった。

もっとも、玄昌はその方法が効果のないことを知っていた。それまで治療した患者は皆、筋力をつっぱらせて息絶えていたからである。

玄昌は「なすすべもなく患者が死の世界にひきずりこまれてゆくのを見るのは堪えられなかった」が、「手をこまぬいているよりは、少しでも治療らしきものをすることによって患者に安息をあたえられるだけが、わずかな慰めであった」のである。

しかし、玄昌は、この患者の最後を看取ることができなかった。玄昌をコレラ流行の元凶だと思い込んだ地元の漁師たちが宿に踏み込み、玄昌を殺害したからである。

このように、『コロリ』には、当時のコレラ患者の悲惨な実態とともに、多くの医師が忌避する中、一人敢然とコレラに立ち向かった医師の姿が描かれている。玄昌がこうした対応ができた背景には、周りの空気に流されず、自分の行動が他者の心情に与える影響にも無頓着という特性があると思われるが、ある種の発達障害を思わせる彼の非常識性は、彼に先進的・英雄的な行動をとらせた一方で、民衆の誤解や反感を生み、非業の死を遂げさせたとも言えるのである。

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