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【識者の眼】「手洗いの父 ゼンメルワイス」早川 智

No.5081 (2021年09月11日発行) P.56

早川 智 (日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授)

登録日: 2021-08-26

最終更新日: 2021-08-26

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還暦を過ぎた筆者は現在、臨床、研究、教育でお世話になった多くの恩師への恩返しを学生や院生、医局員にすることが日々の業務の一つである。筆者の場合、もう一つ「恩書」というべき本があって、学生に紹介している。

半世紀近く前になるが、亡父(元々細菌学者で、後に臨床に転じて産婦人科医)が中学生だった筆者に「これを読んでみたら」と渡してくれたのが『外科の夜明け』(トールワルド著 塩月正雄訳)という文庫本だった。我々が、安全に苦痛なく手術を受けられるようになってまだ200年も経っていない。痛みを制御する麻酔と、感染を制御する無菌法はいずれも19世紀半ばの発明である。感染の予防や制御にはさらに20世紀の抗菌薬の発見や、様々なワクチンの開発が大きくかかわって来る。これらが特に感染症診療では18世紀まで瀉血や怪しげな薬物療法が支配していた西洋医学に、鍼灸と漢方薬主体の東洋医学(もちろんこれはこれで意味があるが)に対する圧倒的な優位をもたらした。

イグナーツ・ゼンメルワイスは当時オーストリア帝国の属国であったハンガリー出身だったが、ウィーン大学医学部を卒業、産婦人科助手の時に、まだその存在が知られていなかった細菌による産褥熱が昇汞(塩化水銀)による手洗いで激減することを明らかにした。しかし、彼は20年後に石炭酸による手術野の消毒で世界的名声を得た英国の外科医ジョゼフ・リスター卿とは対照的に、医学界に受け入れられることはなかった。一般にはあまりに時代に先駆けた医師の悲劇として片づけられることが多い。しかしゼンメルワイス自身もちゃんとした論文を書かず、センセーショナルな一般書や公開質問状で当時の医学者たちを非難するなど科学的な討論よりも感情的な行動をとっている。身分制度が厳しいハプスブルク帝国で、ハンガリーの庶民出身、科学や哲学を冷静に討論する友人にも恵まれなかったのが災いしたのかもしれない。もっとも20年後には細菌学の研究で有色人種である北里柴三郎や秦佐八郎が高い評価を受けている。この違いは、論文を書いたかそうでないかであろう(彼を例に学生・院生には論文を書けと勧めている)。

医学界に受け入れられなかったゼンメルワイスだが、彼の本や手紙は病んだ妊婦、産褥婦そしてなすすべもなかった当時の医学界への真情にあふれている。昨今、あちこちで手洗いを勧めながら、ゼンメルワイスと父の霊よ安かれと思う毎日である。

早川 智(日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授)[感染制御]

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