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震災から6年、避難解除がもたらす新たな地域社会の問題点 [OPINION :福島リポート(26)]

No.4864 (2017年07月15日発行) P.20

及川友好 (南相馬市立総合病院院長)

登録日: 2017-07-17

最終更新日: 2017-07-12

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  • はじめに

    「福島第一原子力発電所から半径30km圏内」。福島県太平洋岸北部に位置する南相馬市は6年前の東日本大震災、福島第一原子力発電所事故のため、政府によるさまざまな居住制限が設けられた地域である。福島第一原子力発電所事故から放出された放射性物質は、震災直後の2011年3月12日から3月16日まで、1号機から4号機までの破損により、900PBqの放射性物質が放出したとされる1)。これは、原子力事故としては最悪とされる国際原子力事象評価尺度「レベル7」と評価された。事故直後から放射線被ばくによる人体への健康被害は問題となっていたが、その実情は当時誰も知らず、不安により生じた風評被害は現在も一人歩きを続けている。

    「3890Bq/body」同年6月25日、女川原子力発電所のホールボディカウンター(以下、WBC)がはじき出した私の内部被ばく量のデータである(図1)。このデータは、同時に測定した金澤幸夫前院長の4326Bq/bodyというデータとともに、南相馬市民の内部被ばく量を測定した最初のデータと思われる。
    震災から6年、私自身も地域もあまりにも多くの、しかも世界観が変わるほどの出来事に見舞われた。行政から指示された、何の情報もないままの避難に伴う混乱、家族との離別、苦しみ、悲しみを共有し、他地域からの風評に伴う心なき差別は、いまだに感じることがある。



    南相馬市立総合病院は福島第一原子力発電所から23kmの距離に位置し、30km圏内では唯一、震災後の診療を中断しなかった病院である。原発から20〜30km圏内のこの地域は、震災直後の10日間は公的支援が一切得られず、ボランティア活動さえ中断され、マスコミも取材に訪れず、自衛隊のみが地域生活を支える唯一の支援者となった。また、政府から出された屋内退避指示、国土交通省から通達された30km圏内への運送車両運行制限、ドクターヘリ運航制限などにより、情報、交通、経済活動が麻痺し陸の孤島と化した。

    このような状況下で当院は入院患者の診療を継続してきたが、3月19日、医療材料の不足と病院に留まった職員の疲弊が重なり、病院の入院機能を維持することは不可能と判断した。入院患者を新潟県へ搬送することになったが、当時原発から30km圏内には救急車両、DMAT車両、ドクターヘリも入らなかったため、私たちは病院から50km離れた場所で患者の引き継ぎを行なわざるを得なかった。

    その後、患者は南相馬市から200km以上も離れた新潟県各地域の病院にお世話になった。震災後も20〜30km圏内には人が住み続けていたが、屋内退避指示、次いで4月下旬から約6カ月継続した緊急時避難準備区域指示の下、入院診療は制限され続けた。地域住民の大規模な避難には医療弱者も当然含まれ、彼らへの様々な形での健康被害は、最終的に震災関連死へと繋がっていく。

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