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新千円札デザインに採用―「日本近代医学の父」北里柴三郎の足跡をたどる【日本医事新報アーカイブズより】

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  • ◆伝研移管より心機一転

    その昔、ドイツより帰朝当時、孤立無援の北里博士を庇護鞭撻した人は我邦私学の権威福澤諭吉氏であった。精神的にも物質的にも、北里氏今日あるの賜は福澤先生の義侠的援護によるものであるから、大正六年慶大医学部の新設に当たり、懸命の努力を吝(おし)まなかったのも福澤先生の知遇に酬(むく)いるためであった。

    官を捨てて野に下った北里博士は、新興慶大医学部の創設経営に全力を傾注すると同時に、北研の社会的存在を偉大ならしむべく努力し、傍ら大正八年大日本医師会の組織せらるるや、会長に選ばれ、次いで法定日本医師会長として今日に至ったもので、政界への野心を放擲して開業医の総元締となり、ここに心機一転するに至った。もっともそれより先、大正六年政友会内閣の時貴族院議員に勅選せられ、政友会のために隠に力を尽くした時代もあったが、伝研を去り、北研の創設から慶大医学部の創始となって博士の心境はようやく昔の学究に返ったかの観を呈するに至った。

    従って博士の貴族院における動静は、もちろん純然たる政党出身者のそれのごとき御礼奉公的運動に携わることはなかったが、同郷の清浦伯との関係上、政友色の判然たるものがあり、また一面において一部の潜勢力を持っておられたのである。

    博士が純然たる政友系勅選議員である関係から、同郷でありながら現内相安達氏とは犬猿もただならぬものがあるといわれている。またその反対に、政友系なるがゆえにこの前の政友内閣時代、健保契約の更改に当たり、政府側が医療費減額を目論んでいる時、貴院の廊下において時の社会局長官長岡隆一郎氏の肩を叩いたばかりに政府をして二十五万円を吐き出させた話は、当時斯界の話柄として伝えられたものである。

    ◆世界的学者としての名誉

    大正十三年清浦内閣の時、勲功により男爵を授けられて華族に列せられた。同年は博士にとって甚だ光栄ある年であった。それは華族に列せられたばかりでなく、十月三十日には英国王立公衆研究会から、満場一致をもって北里博士に対しハーブン金杯の贈呈を行ったことで、我邦の学徒多しといえども、同研究所よりハーブン金杯の贈呈を受けた者は我が北里博士一人あるのみであって、真に世界的学者として我邦の誇るべき一人であった。

    ◆多士済々門下生の学勲

    北里博士の功業を論ずるに当たって逸することのできぬのは、多数の優秀なる門弟を養成し、その門弟の業績によって微生物学に貢献することの極めて偉大なる点である。第一に挙ぐべきものは志賀潔氏の赤痢菌の発見である。梅野信吉氏は痘毒の犢体継続法と犬体に対する恐水病予防注射を創始した。北島多一氏にはハブ血清研究の業績がある。秦佐八郎氏はエールリヒ氏と共同にて六〇六号の製出に成功した。宮島幹之助氏の寄生虫学上の開拓も特筆すべきものがある。その他、大谷彬亮、草間滋、照内豊、肥田音市、佐伯矩らの諸氏は、いずれも門下の逸足として数えられる。故人としては浅川範彦、柴山五郎作、古賀玄三郎らは学会でも一騎当千の雄将であった。野口英世氏もまた、北里博士の助手たりし時代に受けた感化によって業績を挙げた、といわれている。

    誌面に掲載された告別式(1931年6月17日)の写真。「参列者五千以上」と記されている

    ◆死して余栄あり

    博士の訃報が天聴に達するや破格の恩命により従二位勲一等旭日大綬章を叙賜せられ、祭祀料を賜る。死してなお余栄あるものというべきである。

    (日本医事新報 1931年6月20日号)

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