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病院避難の実際と課題 ─ 大規模災害における病院避難が意味すること [OPINION :福島リポート(24)]

No.4830 (2016年11月19日発行) P.20

重富秀一 (JA福島厚生連双葉厚生病院院長)

登録日: 2016-11-18

最終更新日: 2016-11-16

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  • はじめに

    1971年、福島県双葉郡大熊町で県内最初の原子力発電所(原発)が運転を開始した。その後、双葉町と楢葉町(敷地の一部は富岡町)にも相次いで建設され合計10基(第一原発6基、第二原発4基)まで増えた。多くの地域住民は原発との共存を望んでおり、安全性に疑いを抱く者はほとんどいなかった。増設を望む声も多く、双葉町ではさらに2基の原発建設が予定されていた。第一原発から北西4kmに位置している双葉厚生病院は、初期被ばく医療機関に指定されていた。病院では、放射線に関する教育と被ばく患者治療の実地訓練が定期的に行われていた。

    2011年3月11日、太平洋沿岸でマグニチュード9の地震が発生した。地震の直後に巨大な津波が第一原発を襲った。地下の非常用交流電源が水没し、燃料のオイルタンクも流失してすべての電源が失われた。運転中であった1〜3号基は運転を緊急停止したが、全電源喪失により原子炉の冷却ができなくなった。現場の人々の決死の努力にもかかわらず原子炉の冷却を再開することができず、核燃料露出から炉心溶融という一連の重大事象に発展した。大地震に起因する原発事故は、放射性物質の大量飛散という事態を招いた。不本意ではあったが、地震発生の翌日に私たちは病院を放棄し、患者とともに双葉町を離れた。

    あれからもう5年8カ月が過ぎたが、帰還困難区域内にある病院には今も誰もいない。本稿では、あの時、私たち病院職員がどのように行動したかを振り返り、原発事故における病院避難の実際と問題点について考察する。

    病院避難に至る経緯とその実際1)2)

    (1)避難の経緯
    2011年3月11日14時46分に地震が起こった。わずか3分程度の揺れであったが、私たちには途方もなく長く感じられた。激しい揺れが収まるのを待って、患者を建物の外に避難させた。しかし、その直後に津波の情報が入ったため、再び患者を屋内(損壊の軽微な病棟)に移すことになった。そして緊急対策会議を開催し、被害状況の確認と今後の対策を協議した。入院患者の安全を確保し、外来棟を利用して患者の来院に備えた災害診療体制を整えた。貯水タンク損傷のため給水制限を必要としたが、電気とガスは使用できた。夜になると受診する患者が増えてきた。外来ホールにマットを敷いて傷病者を横たえ、必要な処置を行った。重症患者は、深夜に到着した災害時派遣医療チーム(DMAT)によって福島医大に搬送された。翌朝までの受診者は56名だった(図1)。

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