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新千円札デザインに採用―「日本近代医学の父」北里柴三郎の足跡をたどる【日本医事新報アーカイブズより】

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  • ◆学勲赫々たる二大偉業

    博士は人も知るごとくローベルト・コッホ先生の高弟であって、我邦細菌学、免疫学の権威として自他共に許した学者である。従って後世に伝うべき幾多の学勲を有しているが、その最も偉大なるものは西暦一八八九年(明治二十二年)ベルリンのコッホ研究所にあって破傷風菌純培養に成功した一事を挙げねばならぬ。

    この破傷風菌純培養については、既にコッホ先生の門下として北里博士よりも先輩であったフリュッゲ氏らが数年悪戦苦闘を続けたにかかわらず遂に不成功に終わった難問題であった。この難事業を白面の一青年であった博士が俊才雲のごとく集まれるコッホ門下の先輩を出し抜いて成し遂げたということは、常時の世界学界を震撼せしめたことであって、独り博士の名誉であるばかりでなく、我邦の名誉として時人を感激せしめたものであった。この破傷風菌純培養の成功はやがて破傷風抗毒素の創製となり遂に免疫血清を作り上げて伝染性疾患に対する特殊療法のなかった当時、免疫血清療法の基礎を確立したことは学術界に特筆大書せらるる一事で、博士の最も偉大なる功績といわねばならぬ。

    当時コッホ門下の同僚ベーリング氏がジフテリーの免疫について研究を続けていたが、北里博士の破傷風菌純培養の成功に導かれて遂に北里、ベーリング両氏共同研究の下にジフテリア血清の創製に成功したことも博士の偉大なる業績の一つである。以上の二大学勲が近世治療医学に一新紀元を画し、今日有効なる血清療法の根拠をなせるものであって、全人類は博士の業績に負うところ大なるものがあるというも過言ではなかろう。

    ◆政治家か技術官か

    内務省の一属吏としてドイツに留学を命ぜられた北里博士は、偉大なる業績を完成して明治二十五年七カ年振りに錦を飾って帰朝されたが、世人の予期せしごとく象牙の塔に入らず、一技術官として内務省衛生局に入ったが、これ蓋し学勲赫々たる新知識の若き学者の身体を流るる血潮のあまりに潑剌たるものがあったためではあるまいか。直情径行的分子の横溢せる博士ではあったが、そのどこかに政治家的、親分的分子の潜在が一個の学究たらしめず、政治家たらしめんとした原因であったように想像される。

    その後福澤、森村氏らの奔走によって大日本私立衛生会附属の伝染病研究所に入り、さらに明治三十二年国立伝染病研究所の設立と共にその所長となって所員の研究を指導したが、大正三年伝研移管問題勃発するや、憤然一党を率いて野に下り、次いで北里研究所を創立し、伝研の向こうを張って常に両々相譲らずの偉観を呈したことはあまねく知らるるところで、医界の大御所となった博士の野人生活の第一歩がここに始まったわけである。

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