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【特別企画】日野原重明先生を偲ぶ アートとしての医学~ウィリアム・オスラー論

日本医事新報 No.3604(1993年5月22日発行)、No.3605(1993年5月29日発行)掲載

ウィリアム・オスラー博士の死に関する哲学と死の研究

日野原重明(聖路加国際病院院長)


〇緒言

 1960年代以後、欧米やオーストラリア、ニュージーランドにホスピス運動が展開されたことが契機となり、過去四半世紀には、がん患者への病名告知やターミナルケアについての研究や論文、総説が数多く出されている。

 日本においては1977年に「死の臨床研究会」が発足し、また1981年には聖隷三方原病院に、次いで淀川キリスト教病院にホスピス(緩和ケア病棟)が設置されて以来、今日(1993年1月)までに厚生省により認定された緩和ケア病棟は7カ所を数えるに至った。このようなことがきっかけに、日本の医師や看護婦の中に病名告知やターミナルケアに関心をもつ人がしだいに多くなった。

 この方面の先駆者としては、ロンドンに最初の近代的ホスピスを設立したシシリー・ソンダース医師や、『死の瞬間』の著者のキューブラー=ロスがあげられる。

 私は、オスラー博士の伝記を書くために1)2)、生涯を通しての彼の膨大な文献を整理する中で、19世紀後半から20世紀にかけての彼の臨床経験の中で残した残した文献において、オスラーの臨死患者への態度の中に、オスラーの死に関する見解ないし哲学が受けとめられるエピソードのいくつかを発見した。

 またオスラーは、ジョンズ・ホプキンズ大学内科教授時代(55歳)の頃、486例についての「死に関する調査」を行っていることを知り、その時彼が用いたアンケート用紙に病棟婦長および担当医によって書かれた資料をマギル大学オスラー図書館で直接調べる機会をもった。同時に、オスラーの死に関する哲学、安楽死に対する研究者ウィリアム・ムンク博士の見解への批判、オスラーの死に関する講演、さらにオスラーの親しい人の臨死体験、最後にオスラー自身の臨死像を調べることができた。

 今日、死やターミナルケアに関する研究が内外に多数発表されているのに、オスラーの死に関する見解、哲学や臨死患者への対応、またオスラーの息子の喪失体験や、彼自らの臨死像を紹介した文献は、内外を通じて今日までに見当たらない。そのような現実をふまえて、私は、オスラーが今から1世紀も前に死の臨床へ強い関心を示し、かつ注目すべき死の行動の研究(study on act of dying)を行ったことを医学界に紹介することは、きわめて意義深いものと考えて、以下の論文をアメリカの内科学会誌(Annals of Internal Medicine, 1993年4月15日発行の第118巻8号)に発表した。以下はその内容である。

〇臨床医オスラーと死にゆく患者

 ウィリアム・オスラーは、1849年にカナダの小さな寒村にある聖三一教会の牧師の8番目の子供として生まれた。彼は最初、牧師になりたい希望をもっていたので、トロント大学に入学した。後にトロント医科大学の教授ジェームズ・ボベル医師の影響で、オスラーは医師になる決心をし、マギル大学に転校した。医学校卒業後、彼はイギリスとドイツの医学を学ぶために1年間ヨーロッパに留学した。

 帰国後マギル医科大学で10年間教えた後、オスラーはペンシルベニア大学に移り、そこで5年間教え、その後15年間ジョンズ・ホプキンズ大学医学部で教えた。1905年にはオックスフォード大学の欽定教授となり、70歳と6カ月で、オスラーはオックスフォードの自宅で亡くなった。

 オスラーが死にゆく患者をいかにケアしたかということは、ある亡くなった患者の父親の手紙や、オスラーが往診をよくしていた子供の母親の手紙によく表れている。

 症例1

 これは1875年の秋、オスラーが26歳でモントリオール総合病院に内科医として勤めていた時に経験した例である。

 オスラーは、その頃加入したばかりのクラブで食事をした後、イギリスから仕事でカナダに出張してきた青年に会った。具合が悪そうなことにオスラーは気付き、その青年を入院させたが、痘瘡のために3日後に死亡した。オスラーは死に立ち合った医師として、イギリスの父親に手紙を送って、悲しいニュースを知らせた。

 《親愛なるN様に オスラーより

 この手紙でお知らせするまでもなく、貴殿の御令息の逝去の悲報をすでに受け取っておられるに違いないと思います。

 この知らせを突然受け取られた時のショックは大変なものでしたでしょうが、今は漸くそのショックから立ち直られていることと察し、少し詳しい情報をお伝えしようと思った次第です。

 御令息は、自分で重症だということをよく知っておられました。御令息は私に自分の家庭のことやお母さんのことを話し、平素自分の聖書にお母さんがマークしてくれていたという、『イザヤ書』43章を私に読んでほしいと言われました。私は午前中ずっと彼と話をしたり、聖書を読んであげたりして過ごしました。……

 次の日の午前12時には、彼は何か口の中でお祈りをしている様子が見られました。どんな祈りなのかはよく聞き分けられなかったのですが、「父なる神、子と聖霊」と唱えておられるようでした。その後、彼はからだを回して手を差し出したので、私は彼の手を握ったところ、「本当にありがとう!」と静かに言われました。これが不幸なこの青年の残した最後の言葉でした。12時30分頃からは無意識となり、午前1時25分にはうめきもあえぎもなく息をひきとりました。私は牧師の息子として、幼い時から"他国人"にすべきことを聞かされていましたので、クリスチャンとしてのできるだけの友情を最後に捧げ、そして彼をあの世に送る時に用いる祈祷書を読みました。

 以上、愛する貴殿の御令息の死の場面を、できるだけ簡素な言葉でお伝えした次第です。》

 青年オスラーは、この死にゆく患者に対して、医師であると同時に牧師や神父のような臨床牧会役をも果たしたことがよくわかる。

 息子の最期を親切に看取ったオスラー医師に、この両親は深く感謝し、いつかオスラーに会って御礼を言いたいと思い続けていたが、30余年後、オスラーがオックスフォード大学欽定教授時代に、オスラーはたまたまこの青年の姉に出会い、その母を訪ねた。

 症例2

 オスラーが一人息子リビアを戦場で失って1年余りした、1918年のことである。その頃インフルエンザが欧州に流行して、多くの人が死んだが、当時69歳の老医オスラーは、たまたまこの時、ジャネットという少女を1カ月間、毎日1回、往診していた。

 以下は、この少女の母親の手記である。

 《いみじくも心を揺すぶる時があった。―11月の寒く冷えびえするある朝、娘の死も迫っていた時のことである。先生は、だいじに紙で包んだ一本のきれいな赤いバラの花を、その内ポケットから秘かに取り出して、先生がその庭に咲いた夏の最後のこの花をどんな心で眺め、また、その傍らを通った先生によって、どうしてこの花が摘み取られ、また、この花が先生のお伴をして、この小さな娘に会いに行きたいと言ったかを話して聞かされた。

 私たち三人は、おとぎ話のようなお茶の会をジャネットのベッドの脇でもった。ウィリアム卿は、バラと、彼の愛する幼い少女と、その母親に何ともいわれぬ話しぶりでお話をなさった。そしてほどなく、入ってこられた時のように、秘かに爪先で歩くようにしてそっと出ていかれた。こうしてこの少女は、妖精でも、人間でも、その頬の上にいつまでも赤いバラの色を保っておくことができないこと、またひとつのところにいたいだけいることができないこと、だけどまた別のホームがあって幸福でいられることを、また後に残るもの、特にその両親に、別れを嫌なふうに思わせないようにすべきことなどがよく納得できたのです。こうしてこの少女は、何もかもすべてを知ってしまったが、不幸ではなかったのです。》

 オスラーが、この死に近い少女に伝えたかったことは、死はいかなる生き物にも避けられないものであるということで、庭から摘み取ったバラは、そのメッセージを具体的に示したものである。オスラーが語った言葉と行動の繊細さは、とても印象的で感動的である。私は、今後の、病む子供やその親に子供の死が遠くないことを理解させる方法の研究には、このジャネットの母の手紙の内容は寄与するところが大きいと思う。

〇オスラーがプラトンとムンクから学んだ死への見解

 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、オスラーは、医学の科学的な面、特に臨床検査室や死因を追究する検査の重要性を強調したが、それでいて無駄な薬物療法や呪い的な精神療法を避け、生まれながらに人間に与えられている自らの修復力の助けをまつというヒポクラテスの提唱する自然療法を高く評価していた。

 オスラーは1893年に、「プラトンが描いた医術と医師」(Physic and Physicians as depicted in Plato)と題した講演を、ジョンズ・ホプキンズ病院の歴史クラブで行っている。その中でプラトンが『ティマイオス』3)の中で述べた次の言葉を引用している。

 《自然に反したものは、どんなものでも苦痛を与えるものですが、本来の自然のあり方で起こるものは快いものだからです。そしてまさに「死」もまた同様、病気や傷害によってくるものは苦しく、不自然なものですが、老いとともに、自然に終局に向かうものはおよそ死の中でももっとも苦痛の少ないもの、いや苦痛よりもむしろ快楽を伴うものです。》

 オスラーは、病気による死も、その臨死患者の最期には心身ともに苦しくないことが多いことを、後に臨床例で示している。そして、老人の死については、プラトンの考えを受け、無理な延命はかえって当人のクオリティ・オブ・ライフを乏しくする、と言っている。これからも、オスラーがホスピス医学の基本的な哲学を当時すでに抱いていたことがわかる。

 いよいよ病気が進行し、近代医学をもってしても死が避けられないものと経験ある医師が判断した場合は、ある意味での「安楽死」が許されることが臨死患者には望ましいと、オスラーは考えていた。オスラーは、彼がペンシルベニア大学にいた頃読んだイギリスのロンドン王立医師会の歴史学の大家ウィリアム・ムンク医師の書いた『安楽死』(Euthanasia―Medical Treatment in Aid of Easy Death)を読み、ムンク医師の死の避けられぬ患者に「阿片を自由に、しかし法的限度をもって用いる」という考えを支持した。

 そしてオスラーの人の死に対する見解が、ムンク医師の安楽死の本の紹介と共に、Canadian Medical & Surgical Journal誌上に述べられている。これはオスラーの死の研究についての重要な資料である。この論文には死は"恐怖の王"(旧約聖書『ヨブ記』)と述べられている。臨死状態の患者は、それほど苦しまず、断末魔の苦しみと形容されるケースは稀で、死は誕生と同じく、むしろ「単に眠りであり、忘却である」といえる状態でくると、オスラーは彼の経験から書いている。

 また、オスラーは、「死からゆっくりと静かに、苦しみや怖れなく来る。そして平和に人生が閉じる」という意味のシェリーの詩を引用している。このオスラーの論文の中で、ムンク医師が、阿片はただ痛みを軽くするだけでなく、死ぬ際の消滅感と底に沈んでいく感じを軽くさせることのほうが、鎮痛効果以上に効果であると言っている言葉を紹介しながら、このムンク医師の考えにオスラーは深い同意を示している。

 阿片については、ドイツの医師フーへランドが「阿片は、死の苦しみをとり去るばかりでなく、死への勇気とエネルギーさえ与えてくれる」と言っている文を、オスラーは紹介している。

 オスラーは、またムンク医師が、『安楽死』の中で「死ぬ際の現象のいくつかについて」の中でとりあげた、ウィリアム・ハンター(王立アカデミー・オブ・アーツの解剖学教授)が自分の死の直前に残した次の言葉を紹介している。

 《もし私がまだペンを持つ力があったら、死ぬということはなんと優しく愉しいことかと書きたい。》

〇オスラーの死の行動の研究

 大学病院などの大病院では、毎日何人かの患者が死んでいく。このように立て続けに起こる患者の死を扱う医師やナースには、ミルトンがいみじくもそう呼んだように、まるで「仕事としての死」だと、オスラーは述べている。その死をオスラーはこう分析する。

 《多くの人々は、死に面した時には死は何かよくわからないままに死ぬ。教養のある人でも死に向かう自分はどうなるかがよくわからないと思案するうちに意識を失い、もうどうなってもよいという気持ちで死んでいく。》

 1900~1904年の間にオスラーは、ジョンズ・ホプキンズ病院で「死の行動の研究」と題した調査研究を行っている。この研究は、486例の死にゆく患者が、どのような身体的・精神的状況で死ぬかを調べたものである。すなわち、それらの患者は死を間近に控えて、死にどういう感情をもって死んでいったかを調べた。

 この調査用紙は、現在モントリオールのマギル大学のオスラー・ライブラリーに保管されている。調査項目は最期の患者に面接した婦長に記載させ、担当医がサインしている。

 以下は、この死の研究の調査をまとめたオスラーの言葉である。

 《私のところには約500人の死亡患者の記録があるが、それは特に死の形態をまさに死につつある時の感覚について調べたものである。ここで問題になるのは後者だけである。それによると、90人がなんらかの肉体的苦痛なり訴えをみせ、11人は精神的不安を現わし、2人がはっきりと怖がっており、1人が興奮状態にあり、そして1人が激しく悔やんでいた。が、大部分の人はそういった兆候は何ひとつみせなかった。つまり、誕生と同様、死も眠りであり、忘却であった。あの伝道師は正しかった。この点に関しては「あれの死ぬように、彼も死ぬのである」(旧約聖書『コヘレトの言葉』3章19節)。》

 オスラーは、人間がいよいよ死ななければならない時、病人はそっとしてもらいたい気持ちをもつものであり、それができるのは、専門ナースよりもむしろ病人の周辺の世話をする親しい人だということを、1897年のジョンズ・ホプキンズ病院看護婦学校の卒業式で話している(「看護婦と患者」)。

 《壁に顔を向け、じっと静かに病気に耐え、そして当人が望むなら、そのまま誰にも邪魔されることなく死ぬということは、動物本来に与えられた本能的な特性ではなかったか。それなのに、訓練されたナースは、この権利をも患者から奪ってしまった! もっと言えば、優しい母親、愛しい妻、心を捧げ尽くしてくれた妹、忠実な友人、医師の指示を病人の希望にかなう限り実行に移してくれた昔からいる召使い、こういう懐かしい人々をみんな追い払ってしまった。》

 オスラーは、彼の時代のナースのレベルでの患者へのアプローチの態度を厳しく批判して、このように発言したものと思われる。しかし、看護婦のレベルが進歩した今日では、オスラーのナースへ与えた言葉は当を得ていないものと思う。この言葉は、今日では医師のある者への警告であるかもしれない。介在とか管理とは名ばかりで、実際に患者にとっては「侵入者」であり「強奪者」と化してしまい、患者から親しい人々を引き離してしまっているのが現状かもしれない。

〇死に対するオスラーのライブラリー

 オスラーのオックスフォードの家のライブラリーには、「死、天国と地獄」と題したコーナーがあった。その中には、幻想と霊魂、魔術について、霊魂の不滅について、長寿、復活、自殺、安楽死、火葬、(死体の)防腐保蔵法などのテーマの古書や新刊本があった。ある病気で痛みを持つ婦人が、医師に痛みを訴える悲愴な思いを匿名で手紙に綴った『苦痛の言葉』という本もあった。

 当時オスラーは、Spectatorという雑誌の1911年11月号に投書している。

 オスラーは自分を「長年死の研究をしている一学徒」と自己紹介した後、最近のSpectator誌に載せられたメーテルリンクの記事を読んで、そこに書かれた死に関する記事に非常によくない印象を受けたと書いた。その中には「人間の病気による最期の大苦痛」「無駄な延命による痛み」「耐えがたい苦痛の思い出」「死の苦しみ」「恐ろしいほどの身もだえ」「人間の苦しみの中の最も苦しい絶頂」、そして、「恐怖」と表現されていた。オスラーは前述のように、この記載に反対し、死ぬ人の大部分はちょうど人が生まれた時と同様に忘却である」と言っている。つまり、死には肉体的な苦痛があるはずがないと言っている。

 メーテルリンクは、そのSpectatorの中で医師を「本当に患者をしばしば病床に見舞い、手の施しようのない患者のためにひざまづいて祈るようなことすらしない」ようなタイプと書いているが、オスラーはこれに批判的で、オスラーが尊敬しているトマス・フラーの『よい医師』を紹介している。トマス・フラーは、その本の中で「よい医師に看取られた患者は楽に死んでいく」と言っている。

 ソクラテスは毒人参をとらされて死んでいく時に、「医療の神アスクレピオスに楽に眠らせてもらえることを感謝したいので、その神に鶏を一羽お供えしてほしい」4)と遺言したということであるが、多くの人はいよいよ死ぬ時にはソクラテスのような心境になるのではないかと、オスラーは編集長にあてた投書の中で述べている。

 オスラーがオックスフォードに赴任したのは、彼が56歳の時だった。その頃は彼の慢性気管支炎が悪くなっていた頃であった。オスラーの健康が次第に衰えていったことは誰の目にも明らかだった。オスラーはこのことに気付き、しかも、この自分自身の体験を通して、人間の体における病気の影響を観察していたようである。オスラーは、早くも1904年の時点で彼の慢性気管支炎が自分の命とりになるのではないかと、同年6月21日付のサンダース欽定教授(彼はオスラーをこの欽定教授の後任にと推せんした)への手紙には書いている。

 1902年、オスラーは、ハーバード大学のチャールズ・エリオット総長からインガソル講演の招待を受けたが、この講演の困難さと、次第に悪化する健康上の問題を理由に、それを受けるか否か迷っていたようである。その後エリオット総長からの度重なる要請があって、ついにオスラーはその講演を引き受け、そして1904年に「科学と霊魂の不滅性」というタイトルで行っている。その中でオスラーは、霊的な永遠性や不滅性の概念について触れながら、人間の魂の永遠性または不死について世間の人が抱いている考えやその生き方を三つに分類している。

 すなわち、第一は、魂の不滅性や宗教的儀式を認めるが、それとかかわりなく実生活をしている人。第二は、命の不滅性は非科学的であるとして認めない人。第三は、信仰による永遠の命を認める人。

 オスラーは、科学者であっても、魂の不滅の信仰をもつ生き方の意義を認めている。この講演は次のような言葉で終っている。

 《あなたがたの中には必ずやこういう人も出てくることを信じます。すなわち、すべてのタイプを一通りさまよったあげく、結局はキケロの意見に到達する人がいることを。しかしキケロは次のように告白しています。自分がかつて人間の不滅性を否定していて、プラトンの考えに反対したのは、死後の生命を全面的に否定する人たちのことを正しく理解していたからではなくて、むしろ、プラトンを誤解していたからだ、と。これこそが正にこの私自身の信仰告白でもあります。

 人間の霊魂の不滅性という問題は複雑な問題であり、口では話しにくい。ましてや、知性や一貫性といった手段を使って文章を書くことは、もっとむずかしい。……分別のある人ならば、いかに本棚が壮大か、それにひきかえいかに人間が微力か!に気付いて、胸潰れる思いがするでしょう。今日の話を結ぶに当って私も正に同感です。》

 オスラーは、人は、ある程度疑いを残しながらも、霊魂の不滅の可能性に向かって絶えざる追求を続けることが重要であると説いている。

〇オスラーと息子の死

 オスラーは43歳で結婚後、間もなく長男ポール・リビアが生まれたが1週間後に死亡した。子供を亡くした妻を慰めるのに、天国に行った子供から楽しく過ごしていると、両親に宛てた手紙がきたといって、それを妻の化粧台に乗せて、悲しむ妻の心を明るくさせたというエピソードがある。

 しかし、67歳の時に欧州大戦に従軍した次男の戦死の電報を、1917年8月31日に受け取った時ほど大きなショックを、オスラーはそれまで受けたことはなかった。第二子エドワード・リビアは、オスラーが46歳の時に生まれ、順調に成長していった。しかし、オックスフォード大学在学中に第一次世界大戦が起こり、彼は志願して従軍したが、1917年8月31日にフランスのフランダース戦線で21歳の若さで戦死した。

 この喪失の悲しみは、彼が死ぬまでの2年4カ月の間消えることなく続いた。恩師の息子を、まるで我が子のように接していたキャンベル・パーマー・ハワードへの手紙には、「私たちは痛手で心が奪われてしまった。だが、その苦しさは考えていたよりよほどきつい」とある。

 オスラーの家にしばらく同居していたオスラー夫人の妹チャピン夫人の書いたものの中には、《オスラーの心は破れ、涙が止まらない毎日です。老いたオスラーには残酷だと思います》とある。またオスラー夫人は、オスラーのフィラデルフィア時代の助手であったドック博士への手紙に、《私がまだこの悲しみに耐えることができたのは、仕事が忙しくてオスラーが苦しんでいる様子を見るひまもなかったからです》と書いており、二人の嘆き悲しみがいかばかりのものであったかを推し測ることができる。

 このように、一人息子の死によりオスラー夫妻は絶大なショックを受けたが、二人は何とかしてその悲嘆の底から立ち上がろうと努力した。ジョンズ・ホプキンズ時代の同僚ハードへの手紙にある言葉、「私たちの心は破れた。しかし息子リビアのかわいい生涯への素晴らしい思い出をもてるのはありがたいことだ」といった心境が、心の支えとなったように思われる。オスラーは心の中に、彼が日頃愛したテニスンの詩「イン・メモリアル」の27節の句

  愛して失いしが、愛せることのなきよりもはるかにまされるを

 を繰り返し思うことによって、生きる力を求めたことと思う。オスラー夫妻は、欧州からの避難民の救済活動、その他の外の仕事を積極的に引き受けて働いたが、そうすることによって悲しみをのりこえようと努力したに違いない。

〇オスラーの終末時と死の苦しみの克服

 オスラーがアメリカ合衆国からイギリスに生活を移した理由のひとつは、慢性気管支炎によるからだの衰えのためであった。そして、彼の病気は息子の死後ますます進行した。1919年10月に入ると、ひどい咳の発作に悩まされた。咳こむと苦しくなり、「死ぬ思いとなる」と告白している。オスラーはかねてから、死にゆく人の大半は苦しみは少なく、特に老人はそうだと説いてきたが、彼も発作のひどさからモルヒネを使用することになった。これは単味で飲むととても効くとオスラーは言っている。これは、モルヒネが苦しみをとるために単味で用いられている、今日のホスピスのターミナル・ケアとよく似ている。その効果をオスラーは自分自身で確かめたことは疑いもない。

 《すべての薬物類を止め、阿片だけにした。阿片だけを用いると効果がある。阿片をとるとなんと安らかなことか! かわいそうな妹(チャピン夫人のこと)は、私が死ぬのではないかと思い煩っている。この2日間、発作で身も心もくたびれ果ててしまった。》

 つまり、オスラーは肺膿瘍と気管支炎の苦しみは十分体験し、人間は苦しまないで死ぬことはむずかしいとの実感をもったのではないかと思う。しかし、阿片の効果があり、死亡前2週間でも本が読め、また好きな本を朗読してもらっている。

 クリスマス・イブには好きなミルトンの「キリスト降誕の朝に」という詩を甥のW・W・フランシス医師に読んでもらっている。また死の前日にコールリッジの「老水夫の歌」の一節を読んでもらった。そして、1919年12月29日午後4時30分、オスラーは亡くなった。「最後には、死亡1週間前の12月22日に自宅で手術をした膿胸の傷口からの出血があったが、戦場での出血死のように、オスラーは痛みもなく、静かに目を閉じて、70歳6カ月の生涯を自宅で終えた」とクッシングは書いている。

 彼自身が迎えた死の行為は、モルヒネを使った苦しみのない最後の例として、彼の死の研究に加えられて然るべきものと思う。

〇結 語

 若い時代から多くの古典を読み、キリスト教的文化の中で育ったオスラーは、キリスト教的ヒューマニズムに根ざした深い感性と、素晴らしい頭脳とをみごとに合致させた。彼は人間の病むプロセスを追究する病理学を深くきわめつつ、臨床医学を学び、患者や家族の側に立って医療を実践する、共感にあふれた臨床医となった。

 オスラーは、死にゆく患者から心身の苦しみをできるだけ取り去るようにし、そして患者の心に安らぎを与えるようにした。オスラーが医のアートを死の臨床の中で具現し得たのは、終始一貫して患者に対しての全人的なアプローチによるものであった。

 オスラーの死生学の哲学は、彼が数多く出会った患者や、大家族の中の肉親の死、彼がモデルとした恩師らの死を通して生まれたものであろう。またその哲学が彼自身の最期の病気を処する準備ともなり、彼は静かにこの世を去ったのである。今20世紀の終りに生きる私たち医師は、今日のターミナルケアの医学のアートをオスラーから学ぶことができるのである。


〔主要文献〕

1)日野原重明、仁木久恵(訳):『平静の心』医学書院、1983.

2)日野原重明:『医学するこころ―オスラー博士の生涯』、岩波書店、1991.

3)プラトン:「ディマイオス」、『プラトン全集』(12)岩波書店、1975年.

4)プラトン:「パイドン」、『プラトン全集』(1)、岩波書店、1975年.


※表記は掲載時のまま。日付など数字の一部は漢数字を算用数字に直しています。


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