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高木兼寛(8)[連載小説「群星光芒」310]

No.4900 (2018年03月24日発行) P.66

篠田達明

登録日: 2018-03-23

最終更新日: 2018-03-19

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明治天皇は高木兼寛より3歳年下の31歳。その若々しい風貌に親近感を覚えた兼寛は、背筋をピンと伸ばして申し上げた。

「目下、わが国陸海軍の兵員にはしばしば脚気が多数発症していて予防法の確立が急がれます。それには原因究明が第一であり、仮に脚気の原因が外国人によって解明されるようなことがあれば帝国陸海軍の医師にとって不名誉この上なく、日本国民の面目にもかかわります。由って小官はなんとしても脚気病の原因究明をやりぬく所存であります」

天皇は厳粛な表情で諾われ、「ならば如何にして原因究明を致すのか」と御下問された。兼寛はひと呼吸おいて答えた。

「それには兵員に必要な栄養食、すなわち蛋白質と脂肪・含水炭素および塩類の割合、炭素と窒素の比率などについて攻究いたしたならば何か拠り所が判ろうと存じます。これまで小官が探究いたしたところでは、脚気病の原因が食物にあることは疑いがありません。陸海軍兵員の脚気治療は兵食改善にあることをぜひとも御理解いただきたく存じます」

いまや脚気は国民病であり、天皇も兼寛の説明につよい関心をいだかれたごとく耳をかたむけられた。

上奏を終えると天皇より、「今後もいちだんと精励いたすように」と、過分の御言葉を賜り謁見は無事に終了した。

兼寛が脚気対策について上奏した効果はすぐさま現れた。

赤坂御所に参内したその日のうちに川村純義海軍卿は「海員の食卓料はすべて現物支給にする」との兼寛の上申書を承認した。天皇の謁見があったからには何時までも引き伸ばす訳にはいかなかったのであろう。

上奏からひと月経った明治15(1882)年12月19日、大型帆船《龍驤》が376名の海軍兵学校生徒と乗員を乗せて品川を出港した。3本マストの練習艦《龍驤》による遠洋航海である。

同艦は最初にニュージーランドのウェリントンを訪れ、そこから一気にチリのバルパライソまで渡海したのち、ペルーのカヤオに着港する。帰路はハワイに寄港してから品川に帰投する、およそ10カ月間の大がかりな航海訓練である。

その日の夜明け――。《龍驤》の甲板に生徒たちが整列して岸壁で見送る海軍省の幹部たちに出港の敬礼をした。兼寛も彼らに敬礼を返しつつ航海の無事を祈った。

明くる年の7月、待望の《龍驤》の軍医長から海軍医務局に長文の電報が届いた。同艦がハワイのホノルルに到着したとの報告だった。だが、電文に目を通した兼寛は予想外の事態に息をのんだ。

「《龍驤》は帰路ハワイに向かう途中、航海士や操舵手ら乗員の169名が重症の脚気病をおこし、25名が死亡して帆走不能となりました。やむなく火力走行に切り替えましたが火夫も脚気で動けず、艦長自ら火夫を勤めて、ようやくホノルルにたどりついた次第です」

兼寛は電報を摑んだまま絶句した。

その3カ月後、《龍驤》が品川に帰投した。そこには疲労困憊した乗員たちの姿があった。

「死亡した乗員と生徒の遺体は全員で海中葬を行って弔いました」

軍医長は悲痛な表情で航海中の悲惨な事態を詳しく復命した。兼寛も死者たちのために黙禱を捧げた。

ただ1つ、望みを与える報告もあった。

「ハワイ滞在中の1カ月間、全員現地のパンと肉食で過ごしました。品川までの航路もハワイで取得したパンとハム・ソーセージの缶詰を食べて過ごしました。その間あらたな脚気患者が発症しなかったのは不幸中の幸いでした」

この事実は兼寛の胸を強くゆさぶった。

《龍驤》の航海訓練で、外国の港に長く滞在して帰るときは、脚気が発生しにくいことが判明したのだ。

「これは大きな収穫ではないか。外国人のように航海中の糧食をパンと肉食に替えれば兵員の脚気を予防できるかもしれない。今一度、試みる必要があろう」

兼寛の妻富子が3男の舜三を出産したのは明治16(1883)年の正月元旦だった。元気な赤ん坊の啼き声に、誠めでたいと髭を撫でていた兼寛だが、松の内を過ぎると軍務に忙殺されてゆっくりする暇はなかった。

同じ年の10月、長らく海軍医務局長を勤めた戸塚文海が病気を理由に辞任した。副長の兼寛が局内を統括する立場となり、一段と繁忙な毎日がつづいた。

そのさなか、川村純義海軍卿が「来年度の航海訓練は《龍驤》とほぼ同型の大型帆船《筑波》によって実施する」と指示した。

「ただし《龍驤》の二の舞はご免である。《筑波》の訓練は遠洋航海をとりやめてハワイまでの近海航海にする」と申し渡した。

兼寛には大規模な実験航海の腹案があった。《龍驤》とまったく同一航路、同一期間の遠洋航海訓練を行い、全航路の兵食を洋食に変えて脚気を予防できるか否かを確かめるのである。この実験計画を《筑波》の軍医長に任じた青木忠橘に打ち明けた。青木は明治13(1880)年に海軍軍医学舎を卒業した部下である。

「その航海実験でぜひとも脚気栄養障害説を証明しようではありませんか」

青木は目を輝かせて力強く同意した。

つづいて《筑波》の艦長と副艦長に会い、「《龍驤》と同じ航路で脚気予防の遠洋航海をこころみたい」と相談した。

「わかりました。大いにやりましょう」
と、2人はすぐに賛同した。

つぎに兼寛は次回の遠洋航海について海軍の脚気病調査委員会に諮った。

「練習艦《筑波》の兵食をパンと肉食に変えて《龍驤》と同一航路による遠洋航海を試みてはどうか。もし脚気病の発生が少なければ、脚気は食料不良によることが証明されるのではないか」 

しかし海軍主計局長は、「洋食に変更する予算はありません」といいだし、大半の委員も、「海軍卿の仰るハワイ航路が安全です」と及び腰だった。

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