ヴィルヘルム・ケンプ演奏、1963年録音。CDはドイツ・グラモフォン・レーベル(写真)、国内ではユニバーサル・ミュージックより発売
医師として第一歩を踏み出すフレッシュマン時代は、期待と不安が交錯するなかで毎日を夢中に過ごすうち、アッという間に時間だけが通り過ぎてしまった、というのが実感だと思います。
そんな研修医の日々にいつも耳にしていたのがこのピアノ曲です。ブラームスが晩年に遺したピアノ小品集をドイツの名手ヴィルヘルム・ケンプが弾いたもので、ドイツ・グラモフォンの秀逸な録音と相まって素晴らしい演奏を聴かせてくれます。とくにフレーズの間合いのとり方が絶妙で、名人芸の極致ともいえるでしょう。
ケンプはベートーヴェンの演奏で有名ですが、シューマンやバッハの演奏も素晴らしく、実演を聴くたびに感動した覚えがあります。当時ピアノをご指導いただいた国立音大の児玉邦夫教授が留学時代にケンプに師事されており、身近に見た巨匠の姿を知ることができました。児玉先生によると、ケンプはピアニストとして決して恵まれた手をしていたわけではなく、特に指を速く動かせるタイプではなかったそうです。ところが一旦ピアノに向かうとレッスン中でも夢のような名演を聴かせるので、ピアニストがどうあるべきかを心底考えさせられた、と述懐しておられました。
私は研修医時代に国立相模原病院で半年間麻酔を研修しましたが、広大な敷地内にはイチョウ並木があり、山吹色の落ち葉を踏みながらカセットテープに聴き入ったのを思い出します。当時ウォークマンが発売されたばかりで、歩きながらヘッドホンで音楽を楽しむスタイルが斬新だった時代でした。新米医師の不安と、何か素晴らしいことが将来待ち受けているような期待感で胸がいっぱいだった自分に、このCDを聴くたびにたちかえることができます。