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松本良順(14)[連載小説「群星光芒」298]

No.4887 (2017年12月23日発行) P.66

篠田達明

登録日: 2017-12-23

最終更新日: 2017-12-18

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  • 兵部省出仕が正式に決まったのは明治4(1871)年5月だった。早稲田の蘭疇医院は閉鎖して兵部省の仮軍陣病院として政府に寄付することにした。翌年2月、新政府は兵部省を廃して陸軍省と海軍省に独立させた。陸軍省に所属したわしは軍医部の編成に全力を傾注した。その最中の4月10日、実父の佐藤泰然が69年の生涯を閉じた。養嗣子の尚中さんが喪主となり盛大な葬儀が営まれた。

    長く疏遠になっていた尚中さんの訃報を知ったのは明治15(1882)年7月23日だった。享年56。持病の労咳が多忙の身を蝕んだのだ。

    通夜の席で久方ぶりに岩佐 純と出会った。岩佐は禁固を終えて徳川邸から出所したわしを尚中さんと一緒に出迎えてくれた。

    しかしそのとき以来、彼らと仲違いして今日にいたった。

    「亡き尚中さんのことでどうしても良順さんに話しておきたいことがあります」

    岩佐がそう言うので別室に座を移し、人払いして話をきいた。

    「20年あまり前になりますが、医学所は大学校所管となり大学東校と名を改めて発足しました」。宮内省で陛下の侍医を務める岩佐は落ち着いた口調で切り出した。

    「新設の大学東校頭取には名の通った人物を据える必要がある。だれかよい者はおらぬか、と当時の大学別当(文部大臣)松平慶永侯は大学少丞(文部省大学事務官)の相良知安に訊ねました」

    佐倉順天堂を主宰する佐藤尚中先生が適任です、尚中先生ならば学識・人物ともに申し分ない、と話はとんとん拍子に決まり、知安は尚中さんの意向を訊いた。

    しかし尚中さんは、
    「それがし徳川家に恩義があり、会津藩主とも親しかったので新政府の事業に関わるのは遠慮したい」と断った。

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