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大村益次郎(13)[連載小説「群星光芒」282]

No.4871 (2017年09月02日発行) P.68

篠田達明

登録日: 2017-09-03

最終更新日: 2017-08-29

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  • 9月11日の夕刻、大村益次郎の前額の刀創からかなりの出血を見た。

    担当医の大村達吉は綿撒絲と圧迫包帯を何度も取り替え、さらに圧定枕を使用してようやくおさまった。

    9月12日以来、食欲はなかったが総じて容態に異常はなく、神経が過敏になる精神刺戟症状も生じなかった。

    ただし右大腿四頭筋腱(ハムストリングス)の刀傷により右膝の屈曲は困難となり、寝返りができなかった。

    「大村益次郎殿が9月4日に京都で兇漢どもに襲われた」との凶報が東京の兵部省に届いたのは9月中旬だった。

    兵部省では大阪に急使を派遣して大阪府医学校病院の院長緒方惟準(緒方洪庵の嗣子)に、「兵部大輔大村永敏卿(通称、大村益次郎)の診療のため京都に赴くべし」との命令を下した。

    大阪府医学校病院の前身は明治2(1869)年2月17日に新政府によって大阪上本町筋の大福寺に設立された仮病院である。

    この仮病院に緒方惟準は長崎養生所で指導を受けたオランダ軍医ボードインを医療顧問に招いた。正式の就任ではないので緒方院長自らの給料を割いてボードインを雇った。

    ボードインの医療伝習はきわめて熱心で、毎朝院内の全医師を集めて講義を行い、そのあと外来と入院患者の診察に当たった。

    その後、仮病院は大阪鈴木町(現・大阪市中央区)の代官屋敷跡 (のち歩兵第37聯隊兵営敷地)に移転して大阪府医学校病院と名を改めた。

    緒方惟準とボードインが兵部省の派遣命令に応じて長州藩京都藩邸の療病舎に往診にきたのは9月20日だった。

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