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大村益次郎(9)[連載小説「群星光芒」278]

No.4867 (2017年08月05日発行) P.72

篠田達明

登録日: 2017-08-06

最終更新日: 2017-08-01

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  • 太政官議定の岩倉具視は尾張藩主徳川慶勝を懐柔して、旧幕派の藩家老ら十数人を突然斬首させた。

    藩主慶勝の強引な処断によって尾張藩はたちまち勤王にかたむき、東征軍を率いる有栖川宮大総督は、なんなく木曽川を越えて東上することができた。

    江戸へ逃げ帰った徳川慶喜は当初、反攻を計画したが側近たちは挙って諫めた。

    「既に新政府内では武力討幕派が勢いを増して、徳川家が失地回復する手がかりはございません。もし上様が自ら軍配をふるう事態ともなれば、江戸城下は焦土と化して武蔵野の昔に還ってしまいます」

    慶喜は思案の末、慶応4(1868)年2月12日に上野寛永寺の大慈院に入って新政府に恭順の意を示した。

    さらに、上野を出て水戸へ退き、弘道館の一室で謹慎の日々を送りながら朝廷の裁断をまった。

    3月5日、家康の居城だった駿府城に到着した有栖川宮大総督は東海道鎮撫総督の橋本実梁や東征軍参謀の西郷隆盛らと作戦会議を開いた。

    ここで江戸城総攻撃の日を3月15日と決め、徳川家処分の具体案を練った。

    旧幕側は急きょ幕臣の山岡鉄舟を徳川家恭順の使者として駿府の有栖川宮の許に伺候させ、慶喜の意向を伝えた。

    また、鉄舟は参謀の西郷隆盛を説いて幕軍代表の勝 海舟との会談を成立させた。

    これにより、江戸城は戦火を交えることなく4月11日に東征軍に明け渡された。

    このような状況に不満の声をあげたのは、気骨ある旧幕臣たちである。

    「拙者どもは薩摩芋の手先になるなど真っ平御免」

    「連中に頭を下げねばならんとは屈辱の限りだ」

    そう言い合った旧幕臣は、諸藩の脱藩者らを集めて浅草本願寺にたむろした。

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