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大村益次郎(6)[連載小説「群星光芒」275]

No.4864 (2017年07月15日発行) P.64

篠田達明

登録日: 2017-07-16

最終更新日: 2017-07-11

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  • 桂 小五郎の推挙により村田蔵六は万延元(1860)年4月20日、長州藩雇士として給付米25石の馬廻士となり江戸麻布の長州藩邸に引っ越した。

    これを機に麹町の「鳩居堂」は廃止し、藩邸内に新しく「洋書講義所」を設けた。

    ここに藩士を集めて物理、化学、数学をはじめ、西洋の小部隊戦法や大部隊用兵法、築城術などの兵学を講述した。

    藩では長州藩士のみ洋書講義所の入門を許可するつもりだったが、鳩居堂の元塾生たちが蔵六を慕って洋書講義所までぞろぞろやってきた。だが、かれらは諸藩の出身者で入門資格を欠いている。蔵六は宇和島藩のときと同様「四海は一家である。自藩他藩に拘るべきでない」と藩を説得して、元塾生たち全員を入門させた。

    ある日、蕃書調所で教授手伝をつとめる蘭学者の原田敬策が蔵六の許に相談にきた。

    「蔵六さんは築地の中津藩邸で蘭学塾を開いている福沢諭吉さんをご存知ですね」

    「うむ、適塾では手前の後輩だった」

    「その福沢さんから、世界に通用するのはオランダ語ではなくて英語だからといわれて、2人で蘭英辞典を頼りに英語の独習を始めたのです」

    ところが機を見るに敏な諭吉は、
    「なんとしても現地の英語を学ばねば」
    と万延元年1月に遣米使節一行の咸臨丸に従僕として乗り込み、アメリカへ去ってしまった。置いてきぼりを喰った原田は、
    「蔵六さんと一緒に英語を学べたらと思い、厚かましくもお願いに参りました」
    と頭をさげた。

    かつて蔵六は宇和島の二宮敬作から、
    「シーボルト先生の忘れ形見である楠本イネさんを産科医として横浜の外人居留地で開業させたい」と頼まれて、横浜まで何度も足を運んだことがある。

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