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大村益次郎(4)[連載小説「群星光芒」273]

No.4862 (2017年07月01日発行) P.66

篠田達明

登録日: 2017-07-02

最終更新日: 2017-06-27

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  • 嘉永6 (1853)年6月3日、アメリカ東インド艦隊司令官のペリーは4隻の黒船を率いて浦賀に入港、幕府を恫喝しつつ開港を強要した。

    国内は騒然となり、攘夷論が沸き立った。

    それとともに「外国と対抗するには西洋の知識と技術が欠かせぬ」と蘭学者に対する需要が高まった。

    蘭学に理解の深い伊予国(愛媛県)宇和島藩主伊達宗城は、黒船の来航に刺激されて藩の蘭学を躍進させようと考えた。

    これを知った宇和島藩卯之町(現・西予市宇和町)の蘭方医二宮敬作は、
    「もう一度、周防の蘭学者大村蔵六殿に御声をかけては」と藩主に進言した。

    まもなく周防の蔵六の許に宇和島藩から招聘の使者が訪れた。

    このたびは蔵六もすぐに応じて単身、宇和島へ赴くことにした。

    瀬戸内海を渡って宇和島に着いた蔵六を、二宮敬作が卯之町の自宅に迎えて歓待した。その折、敬作は言った。

    「わたしはシーボルト先生に娘の楠本イネさんを託されて天保10(1839)年から5年間、この家に預かっておりました。蔵六さんがこちらにお越しなされたので、イネさんを長崎から呼び寄せて蘭学指導をお願いしたいのですが」

    蔵六はその頼みを快諾した。

    嘉永6年9月、蔵六は30歳で俸禄100石の宇和島藩士に召し抱えられた。

    赴任してまもなく藩家老から藩長屋の1軒を与えられ、ここに蘭学塾を開いた。

    「蘭学の大家が当藩に就任された」

    噂を聞いた藩士たちが吸い寄せられるように蘭学塾に入門してきた。

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