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大村益次郎(2)[連載小説「群星光芒」271]

No.4860 (2017年06月17日発行) P.68

篠田達明

登録日: 2017-06-18

最終更新日: 2017-06-13

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  • アームストロング砲は発射速度、射程、精度と、いずれも兼ね備えた英国製の新鋭速射砲である。

    本郷台の富山藩邸に砲列を敷いて待機していた佐賀藩の鍋島監物砲隊長は、彰義隊鎮圧の指揮官である大村益次郎の要請を手薬煉引いて待っていた。

    「いよいよ我が藩の西洋火砲の真価を発揮するときが来た」

    鍋島砲隊長は充血した眼をカッと見開き、「放てぇ!」と大音声をあげて砲兵たちに命じた。

    轟音とともに回転式の砲弾が上野の山に向かって飛翔する。

    一瞬ののち、数発の砲弾が彰義隊本部のある上野寛永寺の文殊楼(吉祥閣)に炸裂した。楼閣は木端微塵に粉砕され、アームストロング砲の威力に敵味方とも愕いた。

    勢いづいた新政府軍は徳川家を護持する寺院の頂点に立つ寛永寺の堂塔伽藍すべてに火を放った。

    江戸城西ノ丸の伏見櫓で戦況を見守っていた大村益次郎は、上野の方角に濛々たる火焔が立ちのぼるのをみて、

    「やったな」

    と大頭をふって笑みをもらした。

    そして西ノ丸殿舎にもどると新政府最高首脳で関東監察使・鎮将の三条実美に、
    「もはや始末がつきました」

    と自信をもって告げた。

    根拠地を粉砕されては、さすが勇猛な彰義隊も上野の山には踏みとどまれない。

    中にはその場で自刃する者や火中に身を投じる者、あるいは三河島(東京都荒川区方面)へ落ち延びる者もいて散り散りになって壊走した。

    まもなく前線から益次郎の許へ次々に勝報がもたらされ、上野一帯が新政府軍の手に落ちたのは慶応4(1868)年5月15日の夕刻だった。

    「大村軍防判事が予告した通り、戦いは1日で終わりを遂げた」

    「彰義隊がわずか10時間にみたぬ戦闘で潰滅したのは、大村判事の討伐作戦がずばぬけていたからじゃ」

    そういったのは江戸城西ノ丸殿舎に待機していた江戸鎮台の首脳たちだった。かれらは益次郎の作戦計画の周到さと戦況の見通しのよさをこぞって称賛した。

    以来、軍略家大村益次郎の盛名は一躍全国に知れ渡った。

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