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米国における移植臓器の提供者たち[エッセイ]

No.4916 (2018年07月14日発行) P.66

内藤裕史 (筑波大学名誉教授)

登録日: 2018-07-15

最終更新日: 2018-11-28

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40年くらい前、英国・スコットランドにある田舎のホテルの朝食にソーセージの輪切りが出た。色が墨のように黒く、その中に大豆くらいの大きさの脂肪の塊が白く混じっていた。日本で食べるソーセージとはまるで味が違い、食べることは食べたが美味いとは思わなかった。その日の昼に、会議で同席した英国人に朝食に出たソーセージについて質してみたところ、それはブラックプディングという牛や豚の血液の腸詰で、白いのは腎臓の脂肪だという。そして、慣れないと食べにくいかもしれないなぁ、と付け加えた。私は、スコットランド名物の、羊の心臓・肝臓・腎臓・肺のミンチを羊の胃袋に詰めた「ハギス」を美味いと思って食べた記憶はあるが、血液の塊が朝食の膳に乗って出てくるのには驚いた。そういえば、羊皮紙に描かれた中世の彩飾写本の挿絵に、庭先で殺した豚の頸動脈から噴出する血液を、主婦とおぼしき女性が盥に受けている図があった。

話は変わるが、米国で臓器提供者が多い理由として、キリスト教文化が背景にあるとの見方があるが、真相は掛け離れたところにある。

私が米国で麻酔科のレジデントとして研修を始めたのは1964年1月、ニューヨーク市のブロンクス北部にあるモンテフィオーレ病院、アルバート・アインシュタイン医科大学の附属病院だった。ユダヤ系の私立病院で、裕福な患者は主治医のいわばお客様、レジデントは主治医の指示に従って診療をするだけだった。

2年目のレジデントになって半年間の研修に出された病院は、ブロンクスの南端、ハーレムに近く、ニューヨークの中でも特に治安の悪い、最低所得者層の居住区にある市立病院だった。日本の市立病院と違って施療院のような性格を持ち、行き倒れの人、身元不明者、治療費を負担できない人たちが多く、患者の診療は教官の監督下ではあったが、レジデントに任されていた。病院に来るのは初めてという重症患者や、待ったなしの判断を迫られる患者も多く、経験を積むには絶好の場であった。

当時、市内の最下層を構成する黒人の、さらにその下に入り込む形でプエルトリコからのスペイン系の移住者が増えていて、両者の軋轢は激しく、毎晩のように、時には何人も、拳銃で撃たれた人、中には頭を打ち抜かれた人が運び込まれ、「ガン・ショット」は当直に付きもの、野戦病院のようだった。銃の国だから喧嘩や犯罪に拳銃が使われ、使われたら生死はほとんどその場で決まる。したがって、手の施しようのない患者も多かった。米国のレジデントは傷口に指を突っ込んで拳銃の弾を取り出し、即座に拳銃の種類を言い当て、「警官にやられたんだ」などと言っていた。

私たちレジデントは敷地内にあるレジデント宿舎に寝泊まりしていた。玄関に入ると階段の壁面に沿って人体標本が掛けてあった。人体を上から下まで厚さ3cmくらいに輪切りにしたものを、1点ごとにガラスの薄いケースに入れホルマリンで封入し、額のようにしたものである。大きさは人体の断面積に応じ、大きい物では60×40cmくらいあった。当時はCTがなかったから、人体の横断面で臓器の位置関係を、しかも連続的に見るには絶好の標本だった。心臓をはじめ各種臓器や胎児もガラス容器に入れて展示されていて、どれもあまり見かけないものだけに興味深く見て通っていた。

レジデント宿舎の玄関脇に、2階建てくらいの倉庫風の窓のない建物があった。ある時、時間はずれの日中に宿舎に入ろうとすると、その建物の宿舎の玄関に面した扉が開いていた。普段は閉まっていてそこに扉があることも気づかなかったから何気なしに中を覗くと、製材所にあるような、天井から吊り下げられたベルト状の電動鋸が何台も並んでいた。そして、台の上や床には白く凍った死体がごろごろ転がっていた。そこは冷凍倉庫から出した死体を電動鋸で輪切りに引き、あるいは解凍して臓器を取り出し、レジデント宿舎の階段に掛かっているような標本をつくる死体加工場だった。

ニューヨーク市では、多数発生する身元引受人のない死体を、病院の敷地内に工場をつくって標本用に加工・製品化し、博物館や医科大学などに販売していたのである。レジデント宿舎の階段や踊り場は、製品の展示場でもあった訳である。

ニューヨークからエール大学に移り3年目のレジデントを終え、1967年に帰国して間もなく、12月に南アフリカのクリスチャン・バーナードにより世界最初の心臓移植が行われ、それをきっかけとして米国を中心に心臓移植が続き、日本でも翌年8月、札幌医科大学で和田寿郎教授により日本初の心臓移植が行われた。私は、ニューヨークの市立病院で標本づくりに使われていた死体を思い出し、身元不明の死体を手に入れやすい土壌があれば、心臓移植も成り立つだろうと思ったものである。海水浴場に、「犬と黒人は立ち入り禁止」の立て札が立つ南アフリカで、バーナードは引退までに49例の心臓移植を行ったが、ドナーはすべて黒人だった。

1972年、ベトナム戦争の最中、2度目に渡米したとき治安は格段に悪化し、エール大学のあるニューヘブンの街までハーレム並みになっていた。その後、貧富の差は拡大しているというし、薬物乱用死も多く、サンフランシスコにはこれら薬物乱用者のための無料診療所がある。

2015年の米国の統計によれば、麻薬(合成麻薬を含む)による死者は3万人、うち医師の処方による者1万6000人。したがって、残り1万4000人は乱用死と見做される。ヘロインによる死亡1万2000人もコカインによる死亡6000人も乱用死であろう。麻薬・コカイン・ヘロインによる乱用死の合計3万2000人のうち、仮に半数が身元不明とすると、年間1万6000体の引き取り手のない死体が発生するが、このほかに、銃による自他殺が3万2000人いる。一方、日本では、2014年の人口動態統計によれば、麻薬(合成麻薬を含む)による死者は13人、コカイン、ヘロインともゼロ、銃による死者は1人である。

米国の不法移民は1000万人とも2000万人とも言われている。1年間に不法移民の1000人に1人が死亡すると仮定すると、年間1万体、1日に30体の身元不明や引き取り手のない死体が発生する。土地続きで密入国者の多いヨーロッパの国でも事情は似たようなものではなかろうか?

日本では、身元不明、引き取り手のない死体が発生したとしても、そこから臓器を取り出して利用しようとするという発想はなく、そういう死体こそ、無縁佛としてねんごろに葬られるのではなかろうか?死体臓器移植は、動物の皮を剝いで衣服にし、その内臓を容器として使って生きてきた牧畜民の末裔で、牛でも羊でも頭の先から尻尾の先、骨の髄から血液まで無駄なく利用してきた欧米人が、処理に困る死体を目の前にしたときの発想ではないか?

心臓移植という医療技術は、引き取り手がなく処理に困る死体が多数発生する国で初めて成り立つ特殊な医療であって、医療水準の指標になるような高いレベルのものではない。米国の医学は戦後、日本における医学の目標であり続けてきたが、こと臓器移植の件数に関する限り、目標ではありえないし、比較する意味もない。

上述の和田心臓移植の際、ドナーの死の判定に疑問があるということで和田教授は殺人罪で訴えられ、移植を受けるために摘出されたレシピエントの心臓は弁が3つとも切り取られていて、移植の適応があったか否かについても疑念が持たれ、和田教授は非難の矢面に立たされた。そして、それが原因で日本の心臓移植は停滞した、という見方が多く、その面でも和田心臓移植は負の遺産ととらえられた。

しかし、和田心臓移植のあるなしにかかわらず、日本で心臓移植が発展する土壌はそもそもなかったし、治安が良く無縁佛をねんごろに葬う島国日本では、貧富の格差がこれ以上拡大しない限り、これからも心臓移植の発展はないと考えても良いのではなかろうか?

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